13 novembreに寄せて〜フランスの《建前力》

Anne Hidalgo : "Ce qui s'est passé dépasse tout… par ITELE

渦中の14日朝、パリ市長・Anne Hidalogoのディスクール(スピーチ、演説)です。
現時点でネット上にはやはりよりエモーショナルな、13日当夜の談話(コメント、非公式発言)の映像を多く見かけますが、むしろ僕の心に深く届いたのは、一夜明けて考え抜いた、こちらのスピーチでした。
長年パリ市民をやってきたわりに、じつは僕の脳裏には、今回初めてこの女性市長の名前がくっきり記憶されたような気がします。(…もちろん、投票権がなかったからですが;)
昨年当選した際に、国政への失望の高まるオランド大統領の社会党候補として、スター性のある保守党女性候補を制した、ということで、首都・パリ市民のリベラル志向、見識を印象づけられたあと、時折、おや、と思うことがあり、
特に去年の大晦日、年越しイヴェントをパリ市として初めて行っただけでなく、不可能とされていた凱旋門からサプライズで大花火を打ち上げ、お祭り好きのパリジャンを興奮のるつぼに叩き込むなど(笑)何か新しいことをしたい、自由な感じのあるひとだなぁ、
というようにはうすうす思っていた、その程度でした;)

もちろん、シチュエーション、ということはあるでしょう。
1月7日のショックが、ようやく薄れかけていたこの秋に、しかも、今回は規模が桁違いです。
パリは、小さい街なんです。東京とか、ロンドンとかとは違うんです。
おおざっぱには円形のパリ城市の中心、ノートル-ダム・ド・パリから、市外まで、健脚の人であれば2時間で歩いていける、といわれています。
その中で120人もの人が一度に殺される、というのはただごとではありません。
こんなこと、フランスとしては、ヒトラー以来です。
1月にはまだ余裕のあったひとたちも、今回は顔色が変わっています。
1月には、街に緊張が行き渡ったのは、たぶん3日後くらいでした。
今回は、その下地があるのに加えて、即座に一般の商店までが全て閉鎖されてしまいした。
まさにモディアノが自らの拭い去れない悪夢のイメージとして描きつける、「亡霊の街」「死んだパリ」です。

そんな状況下、コンテクストで聞く、このAnne Hidalgoの、非常に簡素で、シンプルで、飾り気のないディスクールは、不意打ちのように心に沁みました。
フランス語の判らない人も、まずは聞いてみて下さい。
政治家の演説ですから当然ですが、だれにでも判るよう、ほんとうにゆっくりと話されています。
改めて、フランス語の響きというのは、彼女のかすかなアクセントも含め、ほんとうに美しい、としみじみ感じます。
何が感動的だったのか、何がそんなに美しいと感じたのか。考えてみました。
それはおそらく、彼女の議論の立て方、彼女のロジックです。

ついでにこの際クリップしておくと、こちらはフランス国営2chの彼女ですが…

事件当夜、市中でのコメントも含め、彼女のいっていることは、常に一貫しています。
それが簡潔にまとめられたのが冒頭の、14日朝のディスクールであり、パリ市のHPにポストされたコミュニケ、Communiqué d’Anne Hidalgo, Maire de Paris – Paris.fr です。

では、その、彼女が一貫していっていること、彼女のトーキング・ポイントはなんでしょう。
それはまず、今夜攻撃を受けたのは、ほかでもない、私たちの《価値観》であり《生き方》なのだ、ということ。そしてその《価値観》、《生き方》とは、多様性を認め、違いを認め、オープンに、みんなで自由に意見を交わしながら幸福に共に生きていく、パリには、パリジャンには、これが生き生きと息づいていた。狂信的な人々は、人間性を沈黙させようとする人々は、そんな生き方が許せなかったのだろう、というわけです。
もちろん、悲しみや、痛み、怒り、哀悼の気持ちはあります。
いまこの時も、病院のベッドの上には、自らの命を賭けて、闘っている人々がいる。
亡くなった人々の多くは若く——あまりにも若かった。
けれど、私たちみんなの答えは1月以来、見られる通り
つまり、私たちは、私たちの生き方を変えたりしない。
全世界に対して、きっぱりといおう。私たちは、《違い》と《他者》を受け入れ続ける。
これは歴史のどんな暗い時代にも、私たちパリジャンが絶えず守り続けた《価値》であり、いまもここにしっかりとあり、これからも揺らぐことなくあり続ける…。

彼女の議論の立て方、ロジックが凛として、美しい、というのはつまりこういうことです。
パリがこの日受けた攻撃を、彼女は自分たちの生き方自体に対する攻撃、と位置づけ、悲しみや怒りや恐怖をロジックの力で、多様性や違いをむしろ擁護する力に変えていく。
つまり、多様性や違いを認めることこそが自分たちの守ってきた価値なのであり、それを否定することこそが、テロに敗れることなのだ、というわけです。

日本語話者の中には、そんなのただのきれいごと、建前じゃないか、という人もいると思います。
確かに、建前であることは間違いありません。ただし、問題は、*ただの*ではない、ということです(笑)
もしそのほうが判りやすいなら、僕はこれを仮に、フランス人の《建前力》と呼んでみましょう。
たとえば、フランスは無宗教の、セキュラーな国だ、ということになっています。それが建前です。しかし実際は、そうではありません。
フランスには人種差別はない、ということになっています。もちろん、人種差別のない国など、この世にあるわけありません(笑)
しかし、一度フランスはセキュラーな国です、といい切る
フランスには人種差別はありません、といい切る
この《建前》のために、それとは異なる現実を、どう調整していくか、ということが常に問題になるわけです。
つまり、そういい切ったために、現実のつじつまを合わせなくてはならない。
なんだったら、こちらをフランス人の《つじつま力》と呼んでもいいのですが(笑)
フランスではまず《建前》があり——おそらく現在の日本の中だけの感覚ですべてを判断する人には、ただの*きれいごと*にしか見えないような——それに現実が《つじつま合わせ》られていく。
その結果、何がおこるのか。
たとえば今回のテロの直後から、ソーシャル・メディア(フランス語ではむしろ日本と同じくréseaux sociauxといいますが;)では
言語道断の行為に対する怒りや非難、被害者の安否情報や、被害者・家族への共感、支援と並んで、
報復の危険に切実におののき、身を慄わせているであろう、大多数のテロリストではないイスラム教徒の人々への支援のメッセージが、同じくらいの勢いを見せました。

4:10 AM - 15 Nov 2015

これは、情緒から、例えば*思いやりの心*から単純に生まれる反応では決してなく、理性のコントロールから生まれてくる反応です。
翌日には、30代のお嬢さんを喪った父親のインタヴューをたまたまふたつ見ましたが、
ふたりとも涙を流しながらも、報復を訴えたりはせず、
ひとりなど、テロ問題にどう対処すべきか、それは専門家の考えることで、そんなことをどうすべきだと自分に判ると思うほど自惚れてはいません、といっていました。
ほんとうに教育のある人だなぁ、と感嘆しました。
(フランスで、ふだん暴力事件などの被害者になる人の親族とは、明らかにタイプが違います。今回のテロの被害者は、平生こういう犯罪に巻き込まれない層のフランス人だということは、念頭においておいてもいいかもしれません)

《建前》をたてていい切る力と、そのいい切った《建前》の現実に作用する力。
現実をその《建前》と《つじつま》合わせようとする力。
これらの力をあわせて簡単に、ロジックの力、ということができる、と思います;)

Anne Hidalgo(*アニ・ダルゴ*と読むとフランス人には通じるはずです;)のいっていることは、多くのフランス人にとって、自明のことです。
早い話が、怒りや恐怖から、嫌イスラム(イスラモフービア)や嫌外国人(ゼノフービア)になってしまうことこそが敵に屈することなのだ、と宣言することで、
多様性や違いを認めるという現代フランスの《建前》を放棄する、という
情緒や《思い》が容易く導こうとするだろう安易な道を、封じ込めてしまうわけです。
つまり、現実をロジックの力で導こうとしているわけです。

20年ほど前に「本音と建前vs理想と現実」という短い覚え書きを発表したことがあります(**『シンプルな真実』角川書店、1995年刊収録)。何を書いたかは、忘れてしまいましたが(笑)
日本では、おそらく70年代以降、歴史や客観性、理性を否定し、そのかわりに、
《いま・ここ・私》に結びついた主観性、情緒、感性、感覚、実感、といったものが、
「揺らぎない、私にとっての*真実*」としてもてはやされてきました。
つまりこれは絶対論であると同時に究極の相対論で、「私にとっての真実」といういい方自体が、既に破綻をはらんでいます。
これには、フランスの*ハイブローなカルチャー*を学んだ人たちが大きく加担していて、
20世紀後半の現象学や構造主義、ポスト構造主義といった、思潮とリンクしています。
しかしそれらはいわば《カウンター》思想であって、カウンターはその本性として、メイン・ストリームが機能しなくなればその価値を失います。
ところが日本はいまもまだその流れの中にある、というかその勢いはますますとどまるところを知らず、
《思い》と《気持ち》こそがこの世でいちばん重要な、信じうるに足る*真実*ないし、それに最も近いもの、というのが常識になっていますね。
《思い》と《気持ち》であれば、そこには間違っているも正しいも、優劣も何もありません。まさに日本の「国語教育」の教えた通り(笑)
しかしその結果、どちらが正しいという判断はつかず、
結局結果的にすべてを決定するのは情緒的な力のモメンタムであり、金である、ということになる。
つまり《思い》と《気持ち》を重視した結果、しょせん全ては非論理的な*力と力のぶつかり合い*、という野蛮人のメンタリティになり、
しょせん全ては*金・金・金*、という拝金主義になってしまう、という、ね。。。
そういうことになっているわけですが、
とにかく、何が正しいか、ということは、結局のところ、
主観では判断することができない、
何が正しい、ということは、客観的にしか決められないのです;)
《思い》や《気持ち》で全てをまかなおうとすることは、もはや完全に破綻しています。
ロジックの力、というのは《思い》や《気持ち》ではカヴァーできない、人間性の大きな領野を、本来担っているのですが。。。
かくて70年代以来、日本では《本音》と《建前》といえば、《建前》は表層的なきれいごとであり、
真実は《本音》にこそ宿っているのだから、《建前》に比べればはるかに重要、
《建前》は「まぁ、建前は建前として、本音で話しましょう」式に、
横においてしまうことができる。
僕がここでフランスの《建前力》といういい方で捉えようとしたことは、
全くそうは考えない、フランス人のやり方です。
(フランス人はむしろ、ほんとうにみんなが《本音》で話し出したら、絶対に収拾がつくわけがない、パンドラの匣が開いてしまう、と考えるでしょう;)

**一方西洋語の翻訳語である《理想》と《現実》はこれと似て非なるもので、
「それは《理想》として横へおいて《現実》の話をしましょう」といういい方は、本質的には不可能。
確かに《理想》とは、いま現在そこにないものです。しかし理想は現実と切り離すことができない、常に現実にコミットして、インヴォルヴしてくるものであり、《現実》に作用して、これを動かしていくものなのだ、というのが、20年来変わらない(はっきりとは覚えてはいませんが、おそらく;)僕のトーキング・ポイントです(笑)

《思い》や《気持ち》がいくらあっても、
例えば、どれほど*思いやる心*が豊かであっても、
いまの日本では、ほとんどの人が、少数意見は表明できない。
それは、「たとえだれからも《共感》されなくとも、どうしてもこれはいわなければならない」
「それが正しいことなのだ」…と、
その心や情緒を支えるものがないからで、
つまり、それがロジックです。
ロジックがなければ、どれほど美しい心があろうとも、それを支えることができないわけです。
(*美しい心*自体に自分を支える力を求めると、つまり情緒に情緒それ自体として自立するだけの強さを求めた場合——ほんとうの*美しい心*には強さも必要!などといって(笑)——
それは客観性を欠いた狂信になり、*聖戦*を闘うテロリストと同じメンタリティになりますね;)

今後西側諸国の対テロ戦争は、おそらくさらに混迷を深めるでしょう。
その中で、独特の、厄介な第二次世界大戦戦後問題を抱えるフランスは、さらにその病理的な問題に直面することにもなるでしょう。
しかし、この《建前力》がフランス人にある限り、ロジックの力がある限り、
理性の光の消えないかぎり、
たとえどれほど遠く、小さくとも、
この10年、フランス人たちにほんとうに大変な目に遭わされて、
そしてその度またべつのフランス人たちにほんとうに助けられ、彼らとともに生きてきた
僕の目には、はっきりと、《希望》が、
いつの日か、フランスがそこから抜け出す
《出口》の灯りが見えるのです。

This entry was posted in Online readings…, パリからの手紙 and tagged . Bookmark the permalink.

Comments are closed.