最近、時事用語化している〈ナラティヴ〉。研究者として、気になる点をもう少しだけ。前回のフォローアップです;)
*「平中悠一のニュースレター」で配信されたテクストを元にしています。

前回のポスト「〈ナラティヴ〉とは何か?——〈ディスクール=言説〉との違いから」。
簡単に書くつもりが、意外と判りやすく書くのは難しく、また、あとになって読んでみると、まず最初に、
もちろん単純には、この「ナラティヴ」を「物語」と考えてもある程度まではいいわけです。[…]実用英語、AI翻訳のレヴェルでは、これで十分なのでしょう。しかし少し考えはじめたら、日本語の「物語」と英語の“narrative”は同じものなのか? 英語の中でも“narrative”と“story”は同義語と考えていいのか??など、いろいろモヤモヤしてきます。
と、“story”、既に日本語の一部となっている「ストーリー」との違いにも言及しながら、〈ディスクール〉との違いの話になって、こちらについては結局、回収していませんでした(笑)
これは「ストーリー」ということばがナラション理論やナラトロジーでは、それ自体としては厳密に定義できず、一般的な英語の話、つまり専門研究外の話にそれてしまうこと、
さらに、ナレーション理論からストーリーとは?と考えると、わりと些末というか、「そんなのナレーション分析をやってる人にしか興味ないんでは??」と思える用語の話にもなってくるので(笑)
おそらく無意識に(笑)そのへんはスルーしてしまった、ということだと思います…。
しかし現在の〈ナラティヴ〉という語の日本での使われ方は、やはり非常に遺憾というか、残念というか、
〈ナラティヴ〉ということばが本来は持っている力を使い切っていない、勿体ない使い方をされている、と思いますので、問題の、前回書き落とした部分から、もう一度この〈ナラティヴ〉ということばに、できるだけ判りやすく、再アプローチしてみたいと思います。
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まず、前回回収し忘れた(?)「ストーリー」と〈ナラティヴ〉の違いを一般的な英語から見ていくと、(「ストーリー」は一般的な語で〈ナラティヴ〉は専門的な術語としてみているので、それぞれ異なった括弧を使っているわけですが;)
英語の“story”の場合、たとえば、“latest story”、といえば、一番新しいストーリー、最新ニュースを指すことができます。つまり、英語の「ストーリー」にはニュース・レポートという意味があるわけです。そして〈ナラティヴ〉には、この意味はありません。
英語の新聞を見ると、見出しの次に記事を書いた記者の名前が載っていますね。日本の新聞は、だいぶ後年になってから、少しずつ記者の名前を載せるようになりましたが、それでも最後に()に入れて、というかたちが多かったように思います。
英語の新聞の場合、ニュースには、必ずそれを伝えたレポーターの名前が必要です。もしこのレポートした人の名前がないと、社説、editorial、ということになり、それはニュースではないわけです。
考えてみれば、これは聖書の昔からそうであって(笑)
新約聖書の福音書、あれはどれも、マタイによる福音書、マルコによる福音書、ルカによる福音書、とその福音を伝えた人の名前で呼ばれています。
福音はゴスペルですが、それはgood news、神についてのよいお知らせ、いいニュース、ということでもあります(笑)このように、西欧語圏では、ニュースというのは誰かが伝えた(レポートした)もの、誰かの視点を介したもの、その人によれば…ということで、誰が伝えたかをはっきりさせる、伝えた人の責任においてのニュースである、という常識があるのだと思います。
そういうわけで、だからこそ〈ナラティヴ〉は、ニュースという意味にはなりません。
前回書いたとおり、〈ナラティヴ〉には誰が伝えたとか、誰に伝えるといった、そういうコミュニケーションの構造からは離れた、ひとつの〈お話〉という性格があります。
“Latest narrative”、というと最新の物語ではあっても、最新ニュース、とは聞こえません。誰がいったわけでも、誰が伝えたというわけでもなく、ただそこにひとつの〈物語〉として存在するのが〈ナラティヴ〉だからです。ニュースとは違い、現実の出来事や、現実の読者や視聴者とは直接的に関係してこない、コミットしてこないものですから、“latest narrative” といわれると、仮にそれがフィクションではないとしても、ニュース報道という感じにはならない。それはそれとして、ひとつの〈お話〉、というふうにしか聞こえないからです。
前回はこのことを、たとえばおとぎ話・昔話を例にして、最後に説明しておきましたが、これを(なんだったら;)理論的に、理論として説明しているものを紹介しておくと、
たとえばデュクロの言語行為論を踏まえた赤羽理論では〈拘束関係〉ということばでこの違いが定式化されています。
つまり、〈ナラティヴ=お話〉においては、語られたことの「真偽」は問題にならない。一方〈ディスクール=コミュニケーション〉においては、〈話し手〉はその内容の「真偽」に責任を負い、〈受け手〉はその真実性に同意を求められる…。
もちろん具体的に同意を求めたり求められたりするわけではないとしても、話したことには責任があり、それを聞いたことにも暗黙の、いわば共犯的な?関係が生まれるわけです。
ニュース報道において、その真実性、「真偽」が問われるのは間違いない。
「これはほんとのことです、誰々がそれを見てきたので、ほんとです」というのがニュースだから。
一方〈ナラティヴ〉では、そういうことは問題にならない。嘘とかほんととかいう現実に根ざした判断とはいわば無関係に、ひとつの物語として事実上——あるいは物語的な事実として、そこにそれ自体として存在するのが〈ナラティヴ〉だからです。
そして、こういう〈お話〉の文体の生み出す力が非常に注目されている。それが現代の状況だ、ということになります。
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ついでにフランス語、ナラトロジー用語の問題も紹介しておくと、バンヴェニストが発話の中にある、
日常の会話などにあたるコミュニケーションのことば、誰かが誰かに向かって話して情報を伝え、相手に影響を与えようとする、いわばパフォーマティヴ(行為遂行的)な発話を〈ディスクール=言説〉;
他方、話し手や聞き手とは直接的には関係しないひとつの物語、〈お話〉として立ち現れてくるような発話を〈イストワール〉と名付けて、この両者を区別したことは前回に書いたとおりですが、
この〈イストワール〉、フランス語の« histoire »にはそもそも英語でいうとふたつの意味がある。
それが“history”=歴史と、“story”=ストーリーです。バンヴェニストが〈イストワール〉といったときに念頭にあったのは、小説などのフィクションではなく、むしろ歴史文のことだったはずです。
このバンヴェニスト理論を小説文の分析に応用したのが、これも前回書いたとおりロラン・バルトで、そのバルトを受け継ぎ、物語叙述分析理論であるナラトロジーを確立したのがジュネットだったわけです。
ところが、バンヴェニスト理論では〈ディスクール〉と〈イストワール〉はふたつの交替する発話のモードだったのに、そのあとのふたりの理論の中で、小説の叙述を全て〈ディスクール〉と考えるようになり、ジュネットは〈イストワール〉をバンヴェニストとはぜんぜん違う意味で使うことに決めてしまいました。
…と、このあたりが理論的な、些末な用語の問題なのですが(笑)
ジュネットが〈イストワール〉に割り当てた新しい意味は〈物語内容〉。
ナラトロジーは分析にあたって、〈物語作品〉と〈物語内容〉と〈物語叙述〉をまず分けます。
〈物語作品〉というのは、たとえば同じ「源氏物語」でも古典テクストもあれば漫画版もあります。映画版もあるし、橋本治版もあります;)
そのそれぞれが、〈物語作品〉。
そこに書かれている出来事や場面、人物などが〈物語内容〉、そしてその内容を具体的にどう書いているか、語っているかが〈物語叙述〉です。
ジュネットは、このうち〈物語内容〉に〈イストワール〉ということばを割り当ててしまいました。(なお、〈物語叙述〉が〈ナラション〉です!;)
〈物語内容〉とは、つまり、日常的には「あらすじ」というかたちで現れてくる部分、と考えてもいいと思います。そこにジュネットが〈イストワール〉を割り振ったため、フランス語の« histoire » の、英語でいうと“story”のほうの意味から、「ストーリー」といわれると、筋、あらすじのことを連想してしまう、というところが多少あります。ただ、英語の“story”それ自体では、ナラション分析の用語としては用いられない、研究者間で共有される術語としては、その定かな地位が確立されていないように思います。英語では、おそらく「ストーリー」になにか形容詞を足さなければ、専門用語としては使えないのではないでしょうか。
というわけで、この後半の部分は、ややマニアックな話題で、研究者以外には直接関係ないかもしれませんし、忘れてもらっていいのですが(笑)
ただ、このジュネットが行った3つの分節化(そのひとつに〈イストワール〉を割り当ててしまったことは別にして!)自体は、それぞれの〈お話〉と、その「内容」と、それをいかに語るか(=叙述、ナラション)、という3つの面が分けられ、そのどの部分について話しているかによって問題になる点が変わるんだな、ということは、覚えておくとあとあといろいろ少しスッキリするかもしれない、という気はします;)
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今回は時事用語としても注目を集めている〈ナラティヴ〉について、既に日本語の一部ともなっている「ストーリー」という英語との違いから説明してみました。如何だったでしょうか。
「ストーリー」というと筋、〈物語内容〉という意味も(少なくとも一部の人においては;)想起されますが、ニュース・レポートのような誰かによる報告、誰かが誰かに向けて送信し、影響を与えることを意図するコミュニケーション、という意味がそこには含まれています。
それに対し、〈ナラティヴ〉はそのような〈話し手〉と〈聞き手〉の関係からは離れたところにある。〈話し手〉にも〈聞き手〉にも、〈ナラティヴ〉は直接的には関係せずに、責任を負わせることもない。いわば、勝手に(物語的に)存在する「事実」でしかない。
たとえばトランプ・チームが、彼らの〈ナラティヴ〉をメディアで広める。しかしそれは、トランプ・チームには何の責任もないひとつの(物語としての)事実的な存在であり、また、それを聞いた〈聞き手〉もその〈真偽〉を個人的な責任をでもって判断する必要はない。
〈ナラティヴ〉はそこに事実として存在しており、〈真偽〉を問われることも、議論の対象になるものではないという、この〈ナラティヴ〉の性格が、現在、政治や世論形成に用いられている。つまり、〈話し手〉としての責任を問うものでもなく、〈聞き手〉に影響を与えようとするものではない、というこの性格が、です。
これは非常に面白い、ある意味不思議な展開だと思います。
〈ナラティヴ〉の持つこの性格を、赤羽理論は〈拘束関係〉ということばを使って説明しています。
日常の会話やコミュニケーション、バンヴェニストのいう〈ディスクール〉に〈拘束関係〉が生まれることは、デュクロの言語学的意味論が議論法の分析(論証理論)などを通じて執拗に論じています(笑)
また〈ナラティヴ〉にそのような〈話し手〉と〈聞き手〉の関係がないことは、ヴァインリヒが指摘し、バンフィールドがその言語的な理由を分析しています。
バルト、そしてジュネットのナラトロジーでコミュニケーション、〈ディスクール〉と結果的に同一視されてしまった小説や物語の語りを、バンヴェニスト理論に立ちかえり、〈ナラティヴ〉、コミュニケーションではない〈お話〉として捉え直しているのが赤羽理論といえるでしょう。
そしてこの〈ナラティヴ〉分析が、では、日本語の場合にはどうなるか。
バンフィールドの分析は、英語、フランス語の場合でしたので、そこのところを現代の日本語で、
谷崎潤一郎『細雪』をコーパスに、そもそも論、初歩の初歩から論じ起こし、行けるところまで突っ込んでみたのが『「細雪」の詩学』です。〈ナラティヴ〉だけでなく、日本語や日本文学に興味のある方も、ぜひ一度読んでみてください。
* このテクストは「平中悠一のニュースレター」での配信を元にしています。