日本語でも読める小説ナラション理論の古典×2;)

日本でも有名なナラトロジーのジュネット(以前こちらのページでも紹介しました)。
実はフランスでマスターを始めた時に、指導教官から、

“フランスでは文学研究をやる人はみんな学んでることだからとりあえず読んで無駄はないよ”

みたいなかたちで紹介されたものなのですが、読んでみると、小説のナラション(日本語では結局「地の文」に近い?)分析のための理論というだけでなく、自分が長年小説を書いてきて、なんとなくやっていたこととか、
こうしなくてはいけないとか、こうせざるをえない、などと、試行錯誤しながら経験的に学んできた、小説を書くときのいわば「文法」(?)のようなものに、

“なぜそうなるのか(そうしなければならないのか、そうせざるをえないのか)”

という理論的な根拠が与えれられ、

「あー、そうだよね、なるほど、だからかー…」
ジェラール・ジュネット
みたいな(笑)非常に独自の面白さを見つけ、単なるフランスの文学研究の必読図書、という意味を超え、一種の小説の書き方の「ルール・ブック」としても熱心に読んだ、という記憶があります。

日本でも研究者なら誰でも知っているこのジュネット、特に有名なFigure IIIの«Discours du récit»の邦訳版はその後品切れ、今年密かに増刷が行われていたようですが(笑)

一方、このジュネット理論に対し、同等クラスに古典的で、重要なケーテ・ハンブルガーの理論は日本ではそれほどには読まれていないのではないでしょうか。
フランスで小説ナラション分析をやっていると、やはり避けては通れない理論書ですが、原文はドイツ語。
僕はフランス語原文のものはだいたい図書館で借りて読んで済ませてきたのですが、原文英語のものはやはり英語で、そして「原文ドイツ語のものも仏訳ではなく、英訳で読んでもいい」という独自ルールを設けていたため(笑)
ハンブルガーも英語版で読んでいました:

ケーテ・ハンブルガーこちらの論文は、ナラション分析というより、フィクション論としての性格が強い。
ドイツ観念論ともつながる文学の現象学というか、論理学でも文法でもない言語の理論から、小説のフィクション性を、主体による対象の叙述ではなく、叙述(ナラション)自体が対象を生み出す、つまり、日常言語のステートメントの主体構造、主体-対象の構造を持たない、独自のフィクション的構造として論じていくもの、とまとめておくといいでしょうか。。
(議論の対象となる“フィクション”も、小説にとどまらず、舞台、映画、そして詩にまで及んでいます!)
直接の研究主題からはやや外れているが、関連書籍を読んでいくと必ず言及されているので(笑)
レファランス的に毎回パラパラ読んでいました。

ところが、今月、気になる点があって、ざーっとこの本を読んでみたところ、意外にも(…え?)この本は三人称だけでなく、一人称小説がなぜフィクション化するのか、ということにもかなりのページを割いていることに気づきました(笑)
(…そして、このポストを作ることも思いついたわけです。。;)

ジュネットのナラトロジーは全ての小説ナラションを「語り手(ナラター)」のメッセージと考え、「語り手」が出てこない三人称の小説にも「語り手」は存在する、という立場で、三人称の小説も一人称の小説と根本的に同じものとして分析していきます。
それに対してナラトロジーを否定するノン・コミュニケーション理論では、三人称には「語り手」はおらず、メッセージの構造を持たない、と考えます。この“三人称小説はコミュニケーションではない(「語り手」不在)”という理論の先駆けとして、ハンブルガー理論は常に引用されています。
だから、パラパラ見るのも、常に三人称の構造について論じた部分だった、という、これまた独自の事情もありました…(笑)

それが通読してみると(笑)この一人称小説の構造分析部分が、意外に(笑)面白い。
ジュネットのように三人称も一人称も同じ、と考えると、すっきり簡単に整理できる部分もありますが、実際小説を書いてみると、一人称には一人称ならではの諸問題があり(笑)三人称と同じに考えることなどできない部分があることは明らかです。
そのあたりを、意外にも(?)三人称のエピック(叙事詩)的文学の分析理論として知られるハンブルガー理論は(三人称小説と一人称小説は根本が違う!と考えているだけに;)当然(!)より鮮明に捉えていることに感心します。
仮に文学理論を「小説を書くときのルール・ブック」として読むならば、
“三人称小説の構造分析を通じて見る、対照的な一人称小説の構造論”として、ジュネット理論(ナラトロジー)が押さえていない問題を、三人称だけでなく一人称小説についても逆に解き明かしている、といえるものとなっています;)

日本語訳も出ていたので、こちらもざーっと見てみました。
確かに英語訳やフランス語訳で読むよりも、日本語訳は難しい。
しかし、これはいつものことで(笑)特に理論書や哲学書は、日本語で読むと何倍も難しく(笑)
まぁ、逆にいうと、哲学書なんか、英仏語で読むとその「難しさ」が判らないために哲学的な問題点をスルーしてしまう、という危険性もありますから(笑・つまり、日常の語彙で書かれているため、日常的な意味で理解してしまう:eg. 「永劫回帰」を単純に「永遠のくりかえし」と読んでしまう、など。「悟性」を「理解」;「内包」を「複雑化」etc., etc.)
よし悪し、といえる面もありますが、日本語版でこの一人称のあたりだけでも読んでみるのもいいかもしれません(英語版も目下品切れ中のようですし;)。
特に現在一人称の小説を書いていて悩んでる人は、「あー、なるほど、そうか、なるほどなー」と目からウロコが落ちるかも。めちゃくちゃピンポイントなニーズに向けたお薦めになりますが(もちろん、分析・研究にはそのまま使えます;)
全巻の、最後の部分です。

…ところで、構造なんか判ってなくても小説は書けるよ、小説を書くのに理論なんか要らない。そう思う人もいるかもしれません。
ちょうど、飛行機を飛ばすのに飛行機の構造なんか判ってなくてもいい、というように。
確かに飛行機が普通に飛んでる間は、そうでしょうね。
でもエンジンや油圧がおかしくなってきたら…。飛行機が飛ぶためにどういう構造になっているか判っていないと、パイロットは問題を解決できないかもしれません。
そんな時のパイロットのように、小説を書くことは、毎日が、失速しかかった小説をもう一度「安定飛行」に立て直すことの連続です(笑)

本来現実(日常言語)と同じ主体−対象構造を持つはずの(つまり自伝をなぞらえるかたちの)一人称の小説が、なぜそれでもフィクションとして成立していくのか。。。考えてみれば、これは一人称小説を書く時に、最初からはっきり判っておきたい、構造的な大問題、ではないでしょうか?;)
この勘所を押さえていないと、一人称の小説は簡単に空中分解してしまいます(笑)
「そんなの、書いてりゃ判るよ」…小説を書く人なら多分そういうでしょう。
確かにいちいちそんなことを説明してもらわないと小説を書けない人は、そもそも小説なんか書いてません(笑)
でも「あれ、どこかおかしいぞ。。」と思い始めた時には。この一人称のフィクション化の構造の基本が理論的にぱっと把握できる、ということが、小説を立て直すためのひとつの助けになるだろうこともよく判る、説明するまでもなくよく判るはずです;)

日本語版のジュネットの肩書は「文学理論家」でも「ナラトローグ」でもなく、きっぱり「詩学者」とされていますが(笑)確かにナラトロジー派は自分たちの方法論をアリストテレスに倣って「詩学」と呼んだこともありました。そこには未来の作品を生み出すための理論でもある、という自負があったのでしょう。
一般にはむしろフィクション論として評価されていますが、本来ジュネット理論と並び立つハンブルガー『文学の論理』もまた、そんな小説を書く人のための1冊でもあり、もちろん「書くように」深く読む人にとっても、決して読んで“無駄はない”、必読図書のまた1冊です。

* * *

というわけで、今年もぎりぎり年末にこの1ポストを滑り込ませ(笑)
年間通算3ポストを達成しました!!
しかし、twitterには結構たくさんポストしていますし、インスタグラムにもfacebookにも何ポストかしているので、結構頑張れたような気がしています(笑)
来年こそ、covidが完全に終息しますように。…しかしここで広がった貧富の差が社会におよぼす影響は、あとになってみると大きなものかもしれませんし、ライフスタイル自体も、以前とはもはや変わってしまっているかもしれませんね。
けれど、Time is on the side of change、時は変わる者の味方、とのことばもあります。
変わることは、悪いことじゃない。むしろ変わるまいとして、変なことをすると、変なことになる(笑)
そういう心持ちで、するりと2022年にも滑り込みたいところです。
それではみなさま、よいお年を! また来年;)

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