必要があって、日本語で小論文を書き、2編査読つきで公刊しました。
どちらも僕が本にできるかどうかは判りませんが、国会図書館には入ると思いますし(笑)また、いずれインターネット上でどちらも読めるようになると思いますので、機会があれば、ぜひご一読下さい。
内容ですが、先ずこの1本目、『言語情報科学』に掲載されたものは、査読を言語情報科学の先生方がおこなって下さると判っていましたので、一切手を抜くことなく、思いっきり書いています(笑)
昔から、というのは、高校や中学生の頃から、という意味ですが。。;)詩的な文章のみならず、ロジックな文章に関しても、僕はいつも「こういうことを書いたら判られないかもしれない…」というリミットの中で、文章を書いていたところがあるのですが、それがフランスに行って、フランス語で論文を書くようになってから、フランス語力の限界もあり、とにかく全力で書く、ということができるようになりました。
この論文も、判られないかもしれない、ということは一切考えず、間違っていなければ、理解される、間違っていれば、どこが間違っているかを指摘して説明してもらえる、という前提の上に、まったくリミットなしに、全力で書いています;)
日本語でこれができる、というのはやはり、言語情報科学という“場所”があったからで、またそこに集まっている先生方いたからだ、と思います。これは、僕にとっては大変幸運な経験だった、ということになると思います。
一方ふたつ目の論文は、日本の物語文学の研究者によって創設された学術団体の機関誌に投稿しました。つまり、日本の古典文、王朝文学、『竹取』『源氏』『狭衣』という意味での、“物語”です。
明らかに、これは僕の仏文脈寄りの、パリ大のフォルマション、また英語のバックグラウンドとはかけ離れたところなのですが、過去の号の目次を見ていると、ナレーション分析理論の概念を援用していることがタイトルにも表れている論文掲載がちらほらあり、また僕がパリでわりとたくさん本を読んで勉強した、日本の物語理論の理論家の先生のひとりもお名前を連ねているようでしたので、これはもしかして、関連性があるかもしれない、と思って投稿してみました。
すると幸い、査読を通過し、査読者の講評でも、この研究会と関連性のある問題を扱っている、と評価していただくことができました。
こちらの論文ではしかし、『言語情報科学』と違いやはり国文脈が強いのではないか、と考え、書式もできるだけ日本語の論文にあわせ、僕としては初めての縦書きの論文の発表でもあるのですが(笑)誌面を見るとそれがまた、縦書き2段組に印刷されており、
ふと18歳の時に、初めて自分の原稿が雑誌に載ったときのことを懐かしく思い出したりもしました;)
あと、トリヴィアルな点になりますが、この論文の要旨は、英語で書いています。僕としては、英文が活字になるのもまた、多分初めてでは?という、そういう記念の掲載誌ともなりました。
…さらにトリヴィアルなことをいうと、普段は略歴に書かない、大学の先生などがよく書いている「博士課程単位取得満期退学」etc., というところまで、フルスペックの学歴を載せています。漢字の羅列がものすごく、戒名のようです(笑)機会があれば、これもちょっと見てみて下さい;)
とはいえ、一般にはなかなか手にする機会はないかと思いますので、そうですね、問題の↑↑英文要旨を今回は転記しておこうかと思います。どういう論文か、だいたい中身も判るのではないでしょうか;)
Articulation of two voices in Tanizaki Jun.ichirô’s A Blind Man’s Tale (1931): dominating “reportive style” and statement-subject, or what beyond
No matter how Ann Banfield argues her “narratorless” theory of narration, she would find a completely different linguistic system in Japanese narrations when it comes to “represented speech and thought.” We begin with an attempt to redefine the notion of “voice” in narration, in order to analyze Tanizaki Jun.ichirô’s novels concerning blindness, in the respect of his invention of narrative style capitalizing Japanese writing system. Through some theoretical arguments, however, we will probably end up on a certain common ground, paradoxically, between Banfield’s “non-communication” theory and the narration in Japanese language whereas the latter is fundamentally communicational.
…いかがでしょうか?
ひとつ目のほうの要旨はフランス語で書いており、こちらも転載してもいいのですが、やはりぱっと読んで判るひとが半減すると思いますので、英語のみにしておきますが;)
それでは、もしまたネットで読めるなどの情報がありましたら、ソシャメ©ででもお知らせしたいと思います。
今回はあくまでも、こういう論文も書きました、というご報告まで、です。
それではみなさま、よい初夏をお過ごし下さい!