久々の一般誌(文芸誌?)寄稿となる、『ユリイカ』大貫妙子特集号が発売になりました。
テーマは、大貫妙子さんのヨーロッパ三部作について。
『シティポップ短篇集』のライナーノーツを見て、また僕のパリ暮らしが長いので…
とのことでいただいたお話でしたが、
しかし大貫さんといえば、僕にもいろいろ思い出すこともあります;)
ただ、『ユリイカ』ということなので、
見本誌を見ると、かつてのような文学と思想、というより、もう少し(昔の言葉でいえば;)サブ・カルチャー寄りの雑誌にはなっているかな、とは思いましたが、
やはり以前からの、ある程度ソリッドな、むしろ論文に近いものを読みたい読者層も、あるいは残ってるかもしれない。。などと思案した結果、
前半をわりと批評的なエッセイ、後半が個人的な思い出、という変則的な「2階建て」の原稿を書いてみました。
タイトルは:「いくたびかの出会い——「ヨーロッパ三部作」と「宛の無い」手紙」。
後半部分の個人的な思い出も、いまとなっては当時の〝同時代的な証言〟ということもでき(笑)若い大貫さんのファンなどには、知らないこと、理解のヒントになることもあるかもしれません;)
『オリーブ』、『月刊カドカワ』時代の思い出をエッセイ的に綴っているので、古くからの読者の方には、ことに楽しい読み物となったのでは。。;)
論文でもなくネットでもない、紙媒体での僕の文体、ミュージカリテも健在だろうと思います。グルーヴ、というかリズム感みたいなものは読めばすぐに判るでしょうし、
また、当時はファッション誌に出てくるモードのデザインや、お店の名前などが入っていたところが、今回は音楽と、やや学術的な単語などに置きかわってるだけで、
そのぶん判りにくくなったという意見もあるかもしれませんが、
逆にいえば、昔の原稿のファッション・アイテムの固有名にしろ、判らない人はたくさんいたはず(笑)
ただ、その〝判らない〟単語のジャンルが少し変わっただけ、という気もします;)
昔の記憶をいろいろ辿ったので、ということもありますが、それ以上に、今回は、あらためて、僕の書く文章は、昔とほとんど変わっていないなぁ。。という印象を自分では強く感じました(笑)
特に、後半の、ここですね:
「——いや。判ろうとすること自体がおかしいのだろう。問いかけることも、語ることもない、ただ確かな沈黙が、そこにあればいいのだろう。」
…こう書いた時に、ああ、僕は結局、こういう距離感を、
コミュニケーションの不可能性をずっと書いている、
デビュー作から、ずっと書いていたわけで(笑)
それは昨年、2024年に公刊された博士論文『「細雪」の詩学』の結論でも書きましたし、
実は今年最後に書いた、先月、11月末に脱稿した、ナラトロジーの論文でも書いている。。
今回の『ユリイカ』原稿、最終段階で削除しましたが、この「——いや。判ろうとすること自体がおかしいのだろう。問いかけることも、語ることもない、ただ確かな沈黙が、そこにあればいいのだろう。」の後には、
「 コミュニケーションに還元できない沈黙の向こうに、表れるとすれば、〈詩〉は表れるだろう。」
…と初稿では続いていました。しかし、そこまで書いたら、この文章自体は〈詩〉じゃなくて、説明になってしまう。だから、そこはぐっと抑えておきました(笑)
***
パラパラと斜め読みしただけですが、今回の『ユリイカ』大貫妙子特集号、他にもいろいろ興味深い記事が載っています。
僕の原稿との関連だけからいっても、
坂本美雨さんが大貫さんの厳しさについて言及し、
天野龍太郎さんが大貫さんのメロディーラインの面白さ(コードのつけにくさ)について紹介し、
また、永富真梨さんの、大貫さんと『オリーブ』のリセエンヌ・ファッションを絡めて論じている原稿は、
恐らく現代から、文献的に過去の「歴史」として『オリーブ』の時代を論じているので、
リアルタイムで携わったものとしては新鮮でしたし、
逆に当時を知らない今の読者には、むしろ届きやすいのではないかな、と思いました。
僕の原稿でもヴァガボンド、放浪、流浪、ということばを用いておきましたが、
永富さんは、越境する女性の「危険性」を「少女・少女性」に落とし込むことで馴化しよう、いわば飼い慣らそうという日本社会、男性社会の意図を読み解きます。
坂本龍一のことばを引きながら、「少女性」というカテゴリにいわば囲い込むことで、許容しようとする当時の「理解者」と、
そこに隘路としてのリベルテを見出す大貫作品、さらにはアーティスト大貫妙子…これはたいへん鋭い指摘であり、論点であり、
ジェンダー論としても、マイノリティ論としても、卓抜した視点、たいへんな炯眼ではないか、と思いました。
あと、個人的に一番意外で驚いたというか、思わず二度見してしまったのは(笑)西村紗知さんの原稿に、「非人称的」ということばが出ていたこと!
僕の「非人称」への関心は、『「細雪」の詩学』でとりあげた、バンヴェニストの言語学や、バンフィールドのナラティヴ理論、ノン・コミュニケーション理論から出てきたものですが、特に理論的でもなく、またブランショなどの文学的な文脈でもないエッセイの中に、ごく自然に「非人称」ということばが表れたため、不意を突かれ、思わず「え、マジか。。」と我が目を疑ってしまったのです(笑)
松永良平さんの、ギターで作曲された大貫妙子楽曲の存在を仮定、というのも面白かったですが、ざっと見たかぎり、ドリヴァル・カイミとかガブリエル・デュポンについて言及している人は(さすがに飛び離れすぎているためかw)目に付きませんでした。
逆にそのあたり、僕がここに加えることのできた、ひと色、ふた色かな、というようにも思います…。
文学研究もそうですが、ある作品を見て、人の感じることはさまざまで、それは視点が異なるからです。バンフィールド理論では、「視点」を主観の座(=主観性)と考えます。
視点(主観)はさまざまなので、出てくる感想や意見もさまざまですが、しかし、その視点の前には、同じものがある。つまり、ここでは大貫妙子というひとつの対象を、各論者がそれぞれの違う視点(主観)から見ている。
すると最終的な意見はさまざまでも、みんなが同じひとつの客観的な対象を見ていることが、やはり自ずと理解されます。対象を捉える主観性はさまざまでも、結局同じ〝何か〟を捉えようとしているんだということが、だんだんはっきり判ってきます。
多様な意見の主観性にまず目を奪われがちですが、それは客観的な対象がない、ということではなく、客観的に存在する対象を捉えるために、さまざまな主観性=視点が働いている、ということなのだろう、と思います。
つまり、問題は、各主観ではなく、それらの主観の先にある、客観的な対象なわけですね。。
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さて、今年もそろそろ年末です。
このユリイカ原稿の他にも今年は投稿論文を、主に生成AIと川端康成作品を中心にして書きました。
博士論文『「細雪」の詩学』が公刊されたため、理論的にはさらに進んだ、その先の議論を展開しており、
はたしてどの程度受け入れられるか、なかなか心配なところもあります。
とりあえず、今年最初に書いた論文は、なんとか査読を通過し、
これが既に「川端康成に見る、一人称物語の語り手消滅」というかなりアグレッシヴな内容なので(笑)よくぞ通していただいた、さすが言語情報…と胸を撫で下ろしたところです;)
これは来春には読んでいただけると思います。
その他に書いた論文と、今回の『ユリイカ』原稿もあわせると、**完パケ枚数**で(ここ、重要ですw)計204枚書きましたので(笑)僕としては、結構働いたほうかな、今年は頑張ったなぁ。。というのが実感です;)
来年はもうちょっとのんびり、好きな音楽を聴いたり、好きな本を読んだり、美味しいワインを飲んだりして過ごしたい。。毎年そういうことをいってる気もしますが(笑)しかし、今年の仕事を見て、もしいろいろ巧く使っていただけるようであれば、また頑張りますので(笑)
ということで、今年も残り僅かとなりましたが、
体調、気力によっては、ニュースレターはもうひとつ書けるかな??と思っております。。ぜひ登録しておいてくださいね。
では、少し早いですが、いいクリスマス、そして良い年末をお過ごしください!
2025年12月臨時増刊号
総特集=大貫妙子 -デビュー五〇周年記念特集–















