随想「京都、パリ—煙を雲とながむれば」Hanako n° 1118号に寄稿、“谷崎潤一郎トリビュート”;)

kyoto tanizakiHanako、最新号(9月8日発売号)、連載コンクルージョン第2/3回掲載です;)

この1年、Hanakoによる「トリビュート連載」ということで、’84年の僕のデビュー作を掲載いただいてきたわけですが、
連載掲載終了後のコンクルージョンは、僕の書き下ろし新作エッセイ。
第1回目はペク・コンウのフォーレ・アルバムをご紹介しつつも、
連載掲載のあとがき的なものに…という編集部からの希望もありつつ、でしたが、
今回、そして次回は、明確に、逆に僕からのトリビュート、ということになります。
つまり、今回の場合、Hanako京都特集にちなみつつも、英語的にいうならば、
“平中悠一 トリビュート to 谷崎潤一郎”;)

何しろ、20世紀日本の小説を代表するビッグ・ネームですから、
谷崎について何か書いて下さい、といわれて、書けない、という日本の文学関係者は
もちろん一人もいない、とは思います(笑)
しかし、こういってはなんですが、僕が谷崎について書く、という場合、
そういうこととはちょっと違います。
感覚的、感性的なことは別にしても、
パリ大の修士〜博士課程でナレーション分析対象の日本語側テキストとして、
何年間も、ものによっては相当徹底的に読み込んでいますので、
谷崎は、もはや僕の専門、といってもそういい過ぎというほどではない、と思います。

簡単にいって、谷崎作品の真価は(確かになかなかカラフルな人生を送ったとはいえ!)到底人物論からは捉えられないこと、
また、本質的には同じ問題なのですが、
文学とは、作者が“いいたいこと”を伝えるもの、
つまり、ひいては、作者の“思い”—“心”を伝えることこそが文学の精髄、
という日本の文学観、等々の理由で、
谷崎文学というのは日本では、いつまでたっても、どうも上手く評価できない
(…ここフランス語で書くと、谷崎文学を主語にして、動詞はdéjour。目的語はcritique japonaise;)
偉大だってことは百も承知なのに。。。ということが延々続いている節もありますが(笑)

結局谷崎の小説は、“何がいいたかったか”、ではなくて、“何が書いてあるか”、から考えない限り、その真価を捉えることができない。
つまり著者の主観を忖度することではなく、
テクストそのものがどうできているかを客観的に分析していくしかないという、
もう、ただただ、それだけの話なんですが。。
その分析に妥当な方法論を習得していない人には、もう、手も足も出ない、
さっぱり歯が立たない…そこで、最悪、出鱈目な思いつきを書く、という羽目にもなるわけで(笑)

そもそも人物論に帰結しないと納得できない、っていうのは、ほんとは文学じゃなくて、“ビジネス書”の読者層なんじゃないの??という気もするのですが、さて、どうなんでしょうね(笑)

zenshu 2015-2017折しも没後50年を記念して、谷崎新全集も刊行中ですので、こちらも誌面でしっかり紹介しておきました;)

なお、タイトルの「煙を雲と…」は、すみません、申し上げるまでもなく、『源氏』ですが;)
これは今回のこの随想の中で回想している、当時僕が考えていた中篇小説のモチーフで、
この原稿を読んだだけでは、当然はっきりとしたつながりは判らないわけです(笑)
しかし僕の中では、この随想の“枠物語”とした、
(…さらにすみません、この“枠物語”という逆転的な文学コンセプトは、もちろん僕の発案です;)
 …えーっと、つまり、文学史的には、常に“物語”に“枠”がつく、という捉え方が常道で、“物語”のほうが“枠”となる、という視点はないわけですね;)

法然院への墓参とは切り離せない思い出なので、
タイトルに忍ばせてみた、というわけです:)
ともかく全体として、しっかり読み応えのある文章になっていると思います。
どうぞじっくりお楽しみ下さい!

巻末エッセイ「京都、パリ—煙を雲とながむれば」掲載、Hanako n° 1118(9月8日発売号)
in bookstore now!;)

次回は同じマガジンハウス、ということで、懐かしい「オリーブ」へのトリビュート。こちらも、どうぞお見逃しなく;)

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