さて、こちらの連載『モディアノ翻訳計画』も、いよいよ佳境に…!?(笑)ということで、日本ではなぜかまったく翻訳されていない、モディアノ、中期の傑作を見てみたい、と思います;)
…確かにLa place de l’étoile は峻烈なデビュー作だし、フランスを代表する新人文学賞・ゴンクール賞に輝いたRue des boutiques obscures は重要な作品でしょう。邦訳のあるこの後者は日本でもモディアノ・ファンにはとくによく読まれている作品だろうと思います。
(『失われた時のカフェで』併録「『失われた時のカフェで』とパトリック・モディアノの世界」でもご紹介したとおり、韓国ドラマ『冬のソナタ』との関連もありますし…;)
しかし、フランスでモディアノの代表作、といえばむしろ90年前後の長篇小説、モディアノが所謂『注目の新鋭』から押しも押されもせぬ重要な作家へ…と移り変わったこのVestiaire de l’enfance そしてそれにつづくVoyage de noces…このあたりがやはり真っ先に挙げられるところ、いちばん定評のある作品ではないか、と思います。今回ご紹介/検討してみたいのは、その問題の日本未訳の傑作、Vestiaire de l’enfance です;)
…さて、この作品の魅力を語るには、例によって、この作品を邦訳する場合に避けがたいdifficulté、困難を、しかし最初からあわせて、一緒くたに語っていく方がいいような気がいたします…;)
だってね、まず、タイトルですよ。一体なんなんでしょう、このタイトル!(笑)
Vestiaire de l’enfance
…もちろん、辞書に従って訳すことはできます。『幼年時代のクローク』…vestiaireということばから、先ず最初に思い浮かぶのは、劇場やオペラ・ハウス、パリだとルーヴルやオルセーなど、大きな美術館にもある、コートや手荷物を預かってくれるクローク、ではないでしょうか。『幼年時代のクローク』。でも、それって、一体なんなのでしょう?(笑)
あるいは『子ども時代のワードローブ』…。こう訳してみても、まだピンと来ません。というのも、『幼年時代のクローク』も『子ども時代のワードローブ』も、本文中には直接出てこないから、です。仮に『子どもの頃のロッカー・ルーム』、と訳してみても…やっぱりだめです。出てきません(笑)
『失われた時のカフェで』の原題・Dans le café de la jeunesse perdue も複数の解釈のできる、じつはふしぎなタイトルですが、作品第一章中にla jeunesse perdue ということばがそのままでてきますので、その部分に従って第一の意味は、直訳としては『迷える若者たちのカフェで』である、と考えることができます。あるいは『どうしようもない若者たち』『救いようのない若者たち』のカフェで。。。(笑) …直訳として、この本のタイトルを『失われた青春のカフェで』と訳す人は。。。単純に、この小説をまだ読んでいない人だ、といえるでしょう;)
- またこのタイトルの訳自体が既に困難、という問題は、同じく中期の傑作Voyage de noces についても同様です。和訳するならもちろんこれは『新婚旅行』。…でも、それじゃあなんだか高度成長期の、サラリーマン向けポルノ小説のようです(笑)しかもこの作品、所謂一人称のナラションのなかに所謂三人称の物語がはめ込まれています(笑)詳しくはぜひこちら、所謂『一人称/三人称』の小説/ナラションも参照していただきたいのですが(笑)かててくわえて、この小説では、複合過去と単純過去がまぜこぜに出てくる、という問題があります。このふたつの過去をスティリスティックな問題、と考えて訳すとしても、本当に『腕』が要ります。しかもこのふたつの過去の違いはやはりtemporalité、時間性の問題だ、と考える立場もありますから。。。もちろんこのふたつの過去の混在を無視すれば—要するに、ただの過去だと考えて—翻訳はふつうにできます。しかしそれでは、意味を“正確に”伝えることは仮にできても、作品を作品として翻訳した、とはいえません(…この件に関しては、『失われた時のカフェで』併録の「『失われた時のカフェで』とパトリック・モディアノの世界」もぜひ参照していただきたいのですが、Voyage de noces という原題を『新婚旅行』とは訳せない、というのも結局同じ問題です。voyageもnocesもフランス語としてはとても美しいことばです。一方新婚も旅行も現代日本語では取り立てて美しいことばではありません。それを『新婚旅行』と訳しては意味としては“正確”かもしれないけれど、この原題が生む効果、ロマンティックで美しい印象を再現することはできません。意味を“正確に”伝えただけでは、小説を小説として訳したことにはならない、というのは、たとえばこういうことです…)。この作品も、誠実に訳そうとすると、相当タフですね;)
…というわけで、Vestiaire de l’enfance、というタイトルでもう、翻訳を放棄したい気分にもなるのですが(笑)しかし諦めがたい、捨てがたい、非常に魅力的な作品です。出だしから、一気に作品のなかにぐいと引き込まれる、このタイプの冒頭を持つ作品は、わりとモディアノには多いのですが、そのなかでもとくに魅力的な冒頭。。。。仮にちょっと訳すとすると、たとえば:
しばらく以前から僕が送ってきた人生は、僕をとても独特な精神状態に陥れた。
…うーん、ほんとは続けてもう少し訳したいのですが、そうすると続きが気になり途中で止めにくい、1ページは訳さないと収まりがつかないので(笑)残念ながら一行だけにしますが…非常に静かで瞑想的な夕暮れのひと時を想起させる書き出しです。
ミステリアス、というのはモディアノのトレード・マークですが、とくにこの作品の明るい陽射しのなかで展開されていく謎めいた世界には、独特の魅力があります。また、ちょっとネットをフランス語で検索してみると、この作品、ポール・オースターと比較しているページ、記事がとくに目立ちます。フランスと同じくオースター・ファンの多い日本でも、好まれる作品、かもしれません。
…しかし、この小説の魅力の核心を語ろうとすると、どうしてもこの作品のミステリアスな構造の核心自体を語ることになるように思います。読む前からそこを語ってしまっては、この作品に関しては「えーっ!!そうか、そういうことだったのか…」という驚きを奪ってしまうような気がして、そこを上手く避けつつ語りたいのですが(笑)
当たり障りのないところで(笑)僕が個人的に面白かったのは、とくに90年以降のモディアノは、思春期の少年の、ミステリアスな年上の女性への狂おしい恋を静かに、切々と描く(でなければ、思春期の少女の寄る方ない心を描く)というものが多いのですが、本作では、なんと(著者を連想させる)中年の男性の、20代の女性への恋が描かれています。思春期の少年が年上の女性に狂おしく恋していく、というのはある意味、安心して(?)読んでいくことができます。しかし、中年の男性が、若い瑞々しい女のコに恋をして、それがだんだん狂おしくなっていくと。。。なんだか読んでいてはらはらするのは僕だけでしょうか?(笑)
「え゛… 先生、いいんですか、惚れ惚れですよ。。。」
などと思わず思ってしまうのです(笑)
明るい光のなかで展開される謎めいた世界、そしてその謎の根幹である、この作品自体の構造が解き明かされる時の「え゛ーっ、そうだったのか。。。」という驚き。
もうひとつ、核心に触れないよう気をつけながらも(笑)挙げておきたいのが、この作品のエンディング、です。
「え゛ーっっ。。。これが終わり?? これで終わっちゃうの?? これでいいの????。。。」
…常に謎が謎を呼ぶモディアノ作品のなかでも、このエンディングは、いちばんエニグマティックで、いちばんスペクタキュラーで、そしていちばん美しいエンディング、かもしれません。。。
そこで、帯案としては(笑)こうです:
グッド・クェスチョンズ。
全ての謎は、夏の夜空に消えていく。。。彼女はだれなのか。それはいつのことだったのか。ここはどこなのか。そして、『僕』はだれなのか…。
“この世の果て”の海辺の街で全ての過去を捨て、気の早い『隠遁』生活を送る《僕》の前に現れたパリジェンヌ。しかしそれは、ほんのプロローグに過ぎなかった。
陽光のビーチから、夢幻的な夜のパリへ——。
リーダブルネス(読み易さ)と高度な文学性を両立させる、名匠・パトリック・モディアノ、中期の代表作。
…ふだんより、帯案の文字数ががくんと多くなっているところに、僕の苦悩を読みとっていただきたい(笑)
…でも、そう。まさに、夏の夜空の中に消えていくようなエンディング。—また、非常にヒッチコッキエンヌでもある、と思うのですが(笑)。。。とにかく、
「え゛ーっっ。。。これで終わり?? これで終わっちゃうの?? これでいいの????。。。」(くり返してますが・笑)
という、抛りだされるような読後感。
しかし、そこで僕は考えるわけです。
でも、この作品に、これ以外どんなエンディングが考えられるだろう。。。と。
するとじわじわと、うん、やっぱりこれは、こうなんだ、こうしかなりようがないんだ。。。と思えてきます;)
投げ出されてしまったような呆然とした気持ちが「やられた…」という思いになって心に沁みこんでくる。。。
いやいや。ぜひともあなたの感想を聞いてみたい。そんな気になる作品です;)
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