翻訳:D. ストリューヴ「源氏を訳す」を訳す;)

日仏翻訳交流の過去と未来: 来るべき文芸共和国に向けてテオリックなものになりますが、ダニエル・ストリューヴ先生の「『源氏』を訳す」(『日仏翻訳交流の過去と未来』大修館書店刊収録)の翻訳を担当させていただきました。
ストリューヴ先生は、現在のフランス、パリ大を代表する日本古典文学の第一人者のひとりで、ご専門は近世文学。以前、フランス語からの翻訳について質問したところ、
現代語だとどうなるかはともかくとして…とどんどん日本語の古文に訳されてしまい、目を丸くした、ということもありましたが(笑)
今回この翻訳を僕に任せてくださったのは、何にもましてまず、先生のご厚意から、ということができます。というのは、高名な日本のフランス文学者に依頼することももちろんできたはずですし、それどころか、ご自分で訳すことだって、当然できたはずだからです(笑)
ひとつには、ここで先生が読者に紹介し、かつ議論の出発点としている、中山眞彦物語理論をストリューヴ先生にご紹介したのが、たまたま僕の研究発表だった、ということがあったと思います。
…一方、理にかなっている点もひとつ挙げるとすれば、ここで議論の基礎になっている全てのナレーション理論が、ただ、僕だったら、ほとんど追加説明なしに、ああ、このことをいっているんだ、問題点はここだな、とそのまま、つうかあで判る、ということはいえる、と思います。。;)

というわけで、これは専門書で、また僕が担当したのはこの部分だけでもあり、さあさあ、皆さんぜひ買ってください、とここでいうわけにはちょっといかないでしょう(笑)
そこで、ぜひ、身近な図書館に購入を依頼し、読んでみていただければ、と思います;)

内容についてもひとつだけ触れておくと、ここでストリューヴ先生は、非常に重要なことをおっしゃっている、日本語母語話者にとって、なに??と驚くべき見解を述べている、
というのは、要点だけ書きますが、
江藤先生も指摘されていたように、日本語の物語文は、物語の内部に入ると「現在形」が現れはじめる。藤井貞和旧論によれば、この「現在形」こそが、日本物語文の基本の時制、ということになります。
この一見「現在形」の無時称のかたちが、じつは「過去」の価値を持っており、西欧物語文、フランス語であれば単純過去にあたる、つまり、非コミュニケイション的=客観的な、すなわち「語り手の存在しない」語りにあたる、というのがストリューヴ理論、ということになります。
藤井新論においても、無時称のかたちはアオリストにあたる、という説は言及されていますが、この説を取る、ということは、特段の議論を構えない限り、同時に、そこにおいて語り手は存在しない、と認めることになります。これは現在のナレーション理論の、もはや*常識*です。
…さらにいうと、直接お話ししてみたところでは、ストリューヴ先生は、物語の時制の基本は「過去」とはたしかにしつつも、ハンブルガーやヴァインリヒといったドイツ系のナレーション理論家とは異なり、その「過去」はただの物語のマークではなくて、やはりある意味で「過去」の価値を保持している、という立場のようです。。

さて、いよいよ本論は、非常にテクニックなものである。。と印象付いてしまったのではないか、と危惧していますが(笑)
僕としては限界以上に、ことばを補うことも辞さず(笑)日本語としてのリーダビリティの確保に走った訳稿です;)
決定稿はどうなっているか判りませんが、そのあたりも、ぜひお楽しみいただければ、と思います:)

「『源氏』を訳す」~『日仏翻訳交流の過去と未来:来るべき文芸共和国に向けて』(大修館書店刊) 収録。

日仏翻訳交流の過去と未来: 来るべき文芸共和国に向けて
ダニエル・ストリューヴ「『源氏』を訳す」

~『日仏翻訳交流の過去と未来』大修館書店刊

『源氏』新仏訳プロジェクトに携わる現代フランスにおける日本古典文学の第一人者・D.ストリューヴが、『源氏』テクストを通じて描き出す日本語ナラションの独自性とは。日本発の“物語理論”も踏まえ、新たなナラション理論へ!

関連トピック:翻訳ナラション理論

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