所謂『一人称/三人称』の小説/ナラション…どうして常に「所謂『 』」付なのか?

『失われた時のカフェで』併録の「『失われた時のカフェで』とパトリック・モディアノの世界」でも、こちらのサイトでも、所謂『一人称/三人称』の小説/ナラション という表現が執拗に(笑)使われていることに気づいた方もいらっしゃるかと思います。どうしてこれが常に「所謂『 』」付なのか。どうして単純にあっさり「一人称/三人称」としないのか(笑)
 これにはふたつ、理由があります。
 ひとつ目は、70年代以降のナラトロジーと呼ばれる物語理論での議論への配慮です。ナラトロジーのひとつの大きな特徴は、所謂『一人称』の小説と『三人称』の小説には本質的な違いは何もなく、究極的には同じ方法論によって分析ができる、ということでした(逆にいうと、所謂『ナラトロジー』というのはコミュニケイション・モデル、パフォーマティヴ・モデルに立脚した理論だったと定義できるのではないか、いうことです;)。したがって、当然のごとく、といいますか(笑)『一人称』『三人称』という分類では実質的には何も正確に説明したことにならない!!という話にもなったわけです。

ジェラール・ジュネットこの件についてはやはり参考文献として、ジェラール・ジュネットのFigures IIIを挙げておきます(笑)

現在ではジュネットのナラトロジーはたいへんな批判を受けています。『一人称』の小説と『三人称』の小説は本質的に違う、という考え方もありますし、ジュネットはそもそも『一人称』のナラション・『三人称』のナラション、という伝統的な定義自体を理解していない、という批判さえあります(笑)少なくとも、今時
「『一人称』の小説と『三人称』の小説は本質的に同じである」
などといってしまったら、その瞬間、火だるまです(笑)

Figures III、日本語版は『物語のディスクール』

ジェラール・ジュネット…とはいえ、たしかに多くの批判を受け、もはや使えなくなってしまった概念も多いですが、ナラトロジーほど包括的で、明快で、運用が簡単なナラション分析のための理論は現在のところまだほかに確立されていません。まだまだナラトロジーの立場やその達成を無視することもできませんから、単純に一人称の小説・三人称の小説、といういい方もできないので、「所謂『 』」が付いているわけです。つまりここでの「所謂『 』」は:「ナラトロジーの立場からは認められないでしょうが、所謂、一般的にいわれるところの『一人称/三人称』の小説」、という意味ですね;)

ふたつ目として、日本語という言語に特有の問題があります。「日本語は“主語”のない言語である」という話はさすがに認める人は少ないのですが(残念!笑)「日本語には(西洋言語の文法でいうところの)“人称”の概念がない、少なくとも、非常に弱い」という話なら、これは多くの人が肯くところではないでしょうか。日本語の動詞は、主語に応じて活用するわけではなく、文の述部には人称を示すものはなにもないわけですから…(勿論、たとえば敬語の存在などは重要な意味を持ちますが、これはまず、必ずしも人称を示しているわけではないし、また文脈に依存しつつ主格なしで文の解釈をより限定的にするという機能は結果的に担っているとしても、所謂“人称”の概念の等価物、代用、とはやはりいえないでしょう…)。

「一人称の小説」「三人称の小説」といういい方は日本でも一般的ですが、極論すれば、日本語で書かれた小説が所謂『一人称』の小説か『三人称』の小説かは、結局それをフランス語なり英語なりに翻訳すると一人称になるか三人称になるか、ということなのではないか…という気もします(極論ですよ)。
 この意味では「所謂『 』」は:「日本語には“人称”の概念自体があるのかどうか疑問ですので、日本語で書かれた小説についてこういういい方もどうかとは思うのですが、所謂、一般的にいわれるところの『一人称/三人称』の小説」、ということになります;)

 このふたつ目の点についての参考文献は、いくつか念頭にはあるのですが、もう少しよく調べてから追記したいと思います。(追記した場合は、twitterでお知らせしたいと思います)

…ということで、いろいろ問題はあるのですが、しかしなんといっても「一人称の小説」「三人称の小説」といういい方は一般的で親しみ深いですから、当面は「所謂『 』」付で、この表現を使い続けているというわけです;)

所謂『一人称/三人称』の小説の翻訳の問題に興味のある方は、こちらもご覧下さい。
モディアノ翻訳計画・番外篇*L’Horizon〜ほんとうの悲しみと幸福を知る、大人のための“ファンタジー”
また、日本語とフランス語・英語の違い、日仏文化比較、言語学に興味のある方は、
なぜフランスではいい訳はすればするほど感じがいいのか? 『日本語の森を歩いて—フランス語から見た日本語学』
フランス語や日仏文化比較に興味のある方は
パリより:セ・パ・グラーヴ

2010年以前の記事になりますが、こちらもご覧下さい。

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