自由間接話法とは何か?—かたちと機能、和訳からの観点

〜Step 3 日本語による置き換え・翻訳の困難。

Step 1でみたように、標準的な理解では、自由間接話法はかたちからいうと、間接話法:
She said that she loved him.
からShe said thatを省いたもの、つまり、
She loved him.[Step 1 例文1より]
…というのが基本になります。

ところが日本語への訳出で、これをそのまま
彼女は彼を愛していた。
としてしまうと、これが自由間接話法であるということも、さらにはこれが彼女の“発話”である([例文1]の場合)ということも、まったく判りません;)
日本語で見ると、コンテクストがあっても、まったく、完全にナラションの一部のように見えます(笑)

これが直接話法、
She said, “I love you.”
であったら
「私はあなたを愛してるわ」と彼女はいった。
と訳せばいいでしょう。

また間接話法
She said that she loved him.
であった場合も、
彼を愛してると彼女はいった。
と訳せばいいわけで、lovedがかたちの上で「愛している」と(Step 2の最後でみたような日本語の性質から)現在形にはなっていますが、意味からみれば原文通りに伝えられているわけで、結果的にこれも和訳にあまりは問題ないですね。

では現行、問題の自由間接話法は日本語への翻訳においてどう処理されているか、というと、まずこの話法を(コミュニケーション理論の立場に立ち、直接話法・間接話法とおなじく)発話を伝える話法だ、と理解します。
…何度もお断りしておりますが(笑)Step 2でみたように、自由間接話法は“意識”を伝えることもできるのですが、そちらはまぁ、一種の変形として(内声、つまり声には出さないが発話なのだ!!というような認識ですね;)まず、とりあえず、発話として訳す、ということです。
(この認識が厳密にいって正しいかどうか。それは「内声」「発話」という日本語の術語が、たとえばフランス語・英語のどういう術語にあたるか、ということにかかってくる…と思うのですが、これまた、ここでは深くは立ち入りません;)
さらに追記2

さらに追記1 というわけで;) ヴァインリッヒのテクスト言語学からの観点を付け加えておきますと;)
結局言語学的分析においては、それが「内声」であるか/声に出された「発話」であるか、を問うことには意味がない、ということになります。
いわれてみれば単純明快、真っ当至至極な判断、ではないでしょうか;)

…Step 1の[例文1]の自由間接話法のShe loved him.を
彼女は彼を愛していた。
としてしまうと、これは発話である、ということがまったく判らない。ナラションの一部、たんなる所謂『地の文』の一部と見分けがつかず、そこに自由間接話法が存在する、ということ自体も判らず、「訳者は自由間接話法を見分けることができなかったのではないか?」というようなあらぬ批判も招きかねません;)
そこで、発話とはっきり判るように、こう日本語に訳します:

彼女はじっと彼の目を見つめた。
私はあなたを愛しているわ。

すると、フランス語の自由間接話法(あるいは英語の描出話法)を知っている読者は「むむ、自由間接話法(or描出話法)だな。訳者は原文をよく理解している。なんと『ネイティヴ感覚』溢れる訳だ、素晴らしい!!…」
と思ってくれる、といういう寸法になっています。。。

でも、ちょっと待って下さいよ(笑)
これって、直接話法の訳、
「私はあなたを愛してるわ」と彼女はいった。
から、“と彼女はいった”と“「 」”をのけただけですよね(笑)
もっというと、人物の発話(セリフ)から引用符「 」をのけただけです(笑)
セリフから「 」をのけたら、自由間接話法??
そんなこといったら、僕のデビュー作なんて…自由間接話法だらけです(笑)

…いやいや、冗談でなく、たとえば(まぁ、僕のデビュー作はさておくとしても、ですよ;)日本語の例だと、ナラション(というか《語り》というべきかもしれませんが)の可能性にオブセッシヴに取り憑かれていた谷崎のさまざまな試みがすぐに頭に浮かびます;)
谷崎潤一郎『春琴抄』の人物の発話・発言は、「 」なしで『地の文』にとけ込ませてあります。しかしあれはやはり『直接話法』、ないしは『セリフ』でしょう。
また『卍』は、物語内の女性の話者の問わず語り(?)でほぼ全篇が構成されています。“と彼女はいった”といちいち書かれてはいませんが、あれだって、ひとつの巨大な『直接話法』と捉えることもできるでしょう。。。
そもそも「 」が日本語のナラションに取り込まれたのは、江戸以降のことではないでしょうか? 「 」をのけたらもう直接話法じゃない!というのなら、それ以前、日本語には直接話法はなかったのか??
(あるいはこれまた、じつは核心を衝く問いかけ、かもしれませんが…;)

ジョイスまた、英語からの問題点を挙げるなら、早い話が、ジョイスです(笑)
『ユリシーズ』のとくにスティーヴン/ブルームのチャプターのナラションにみられる所謂“意識の流れ”の部分、ジュネット式にはdiscours immédiat、などとも分類できるかもしれませんが、
あの部分。あれをまさにHe said to himselfと“ ”の落ちた直接話法のかたちの発展形、と見ることだってできるわけです;)

Step 1の[例文1]の最後の一文の自由間接話法、(ひとつ前の文から再録しますが)

She looked into his eyes.
She loved him. ←自由間接話法

こちらは意識でも内声なく、はっきり発話と判る例でしたが、あれをこのかたちの直接話法にしてみましょう:

[例文1その2]
She looked into his eyes.
I love you.

これはまさに直接話法
She said, “I love you.”
から、She saidと“ ”をのけたものに他なりません!
She saidと“ ”がなくても、ぱっとみてこれは発話・発言だ、と判ります;)
…なぜか?
…そうです、このナラションの基本の時間は過去なのに、ここだけ現在形になっているからです。時制の違いによって、ナラションにとけ込むことなく、発話としてくっきり浮き上がっているわけです。
(このように、直接・間接・自由間接話法の認識の、かたちの上での決め手となるのが『時制の一致』で、それが日本語にはない—複数の時間的視点をとったほうがむしろ自然だ—というところがまさに日本語への訳出時の問題なのですね…;)

    Review : 一方、自由間接話法のかたちの基本は、間接話法から、たとえばShe/he said thatをのけたもの、でしたね。代名詞や動詞の時制などが一致しているので、一見、ぱっと見としては、基本的なナラションにとけ込んでいて、コンテクストがあることで、それが発話や意識(あるいは内声)などだと判り、自由間接話法だ、と判るのでした…。

    …? 一見ナラションにとけ込んで見えるのは、それがナラションと同じかたちでだからでしょ? たとえコンテクストがあっても日本語訳ではナラションと同じかたちだから見分けがつかない、っていうんだったら、どうしてフランス語や英語では自由間接話法や描出話法と判るの??
    …うーん、そこですよね(笑)それは恐らく、フランス語や英語の自由間接話法や描出話法が、ナラションと同じかたちであるだけでなく、間接話法から(たとえば)She/he said thatをのけたものとも同じかたちであるためではないでしょうか?(笑)
    確かに、ここも考えどころではないか、という気がします。
    もしこの理解が当を得たものなのだとしたら、やっぱり自由間接話法は、間接話法を前提に成り立ってるものじゃないの? というあたりを、ノン・コミュニケイション理論派の人にうかがってみたいところです;)

    訂正:ここもこちらに追記したとおり、過去形とdeixisなどが一文にあらわれたら、フランス語・英語の場合それだけで自由間接話法では?…と気づく、という点を付け加えておきます!

[例文1その2]のShe/he saidも“ ”もないかたちの直接話法(といってまずければ、発話/内声の表現?)は、フランス語や英語の小説には、実はふつうに出てきます(笑)
[例文1その2]のこの部分を日本語に訳すとすればもちろん、当然、
I love you. →
私はあなたを愛しているわ。
と訳すことになります。
ほら。
これ、さっきの自由間接話法の《ネイティヴ感覚溢れる訳》と完全に同一ですよね??(笑)
ですから、自由間接話法を直接話法的に、
私はあなたを愛しているわ。
と訳してしまうと、さあ、She/he saidや“ ”なしの「発話/内声の表現」が出てきたらどうすればいいんでしょうか?(笑)
She/he saidと“ ”なしのこのかたち([例文1その2])が、[例文1][例文2]のような自由間接話法と同じ小説にまぜこぜに出てくる—これもまた、現代のフランス語・英語の小説では、ごくごくふつうに、よくあること、なのです。。。;)

私はあなたを愛しているわ。
この発話から「 」を外したかたちは、正しくShe/he saidと“ ”なしの直接話法の和訳にあてられるべきものでしょう。
『地の文』のなかにとけ込むどころか、くっきりと発話として浮かび上がって来るからです。

もうひとつだけ、例を挙げましょう。Step 2の[例文2]で、僕はいきなり問題の、最後の文を、自由間接話法におきました;)

彼女からの長い手紙を読み終えると、彼は一人、静かに涙を流した。
He loved her.

この自由間接話法が、往々にして、こう和訳されるのです:

彼女からの長い手紙を読み終えると、彼は一人、静かに涙を流した。
俺は、彼女を愛してる。

そしてこれこそが(笑)『失われた時のカフェで』収録の解説、「『失われた時のカフェで』とパトリック・モディアノの世界」で書いた、僕が「大学時代以来“ぎゃふん”といわされ続けてきた訳」なわけです;)

この訳の日本語で読むと、所謂『三人称』の小説が、最後にきていきなり所謂『一人称』の小説になってしまったのか!!という印象さえ覚えます(笑)
自由間接話法の、生き生きとはしながらも、ナラションの中にとけ込む話法、というのはまさに正反対の、浮き上がりまくる訳出法です。

要するに、自由間接話法を発話と捉えて「」を外して地の文に埋め込む、という直接話法的な訳出法の最大の問題は、フランス語・英語原文で自由間接話法・描出話法を読んだ時の感覚とはかなり違っている、原文とはむしろ違った効果を生んでしまう、というところなのです…。
(この結論部分は、「『失われた時のカフェで』とパトリック・モディアノの世界」のほうにはっきり書いていますので、ぜひ参照してください。)

…いうまでもないことかもしれませんが、もうすこしだけ付け足すと(笑)文法用語的な角度から見れば、「」があるかないか、ということは「話法」の問題じゃないですよね。「」があるから、ないから、といって、それで「話法」が変わるわけじゃありません
もし文法的な概念を持ち出すんだとすれば、それはむしろ単なる「句読法」の問題ですよね。。。;)

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