…とりあえずCDを中心に、パリにきたから出会えたと思えるものを。2007年に書いたまま放置されていたプレフェースはこちら

マタイが好きになった夏〜#新譜早耳2022 上半期早決算;)

先日、すごく久しぶりに、音校の生徒を見かけました。制服は、あれ、夏服、こんなふつうの、普段着みたいだったかな??と思ったんですけど、でも、ぱっと見て、判る(笑)ふた組、カップルでいたから、というのもありますが;) 涼し気な軽装で、へー、いまはこんな感じなのか。。と思った途端、うわーっと目に涙が浮かんできました。え? なんで? なんで? と動揺しましたが(笑)ああ、なるほど…。イヤフォンからちょうどその時聴こえていたのが、この曲、この録音:

Sonoko Miriam Welde: Bruch, Vaughan Williams & BarberSonoko Miriam Welde

ブルッフヴァイオリン・コンチェルト、第3楽章、フィナーレです。
自分の好きな音楽の傾向を、以前ベルリオーズの『幻想』を例に、できるだけあれこれ書いてみた回もありましたが;)
この経験で、この演奏も、当然僕にとっては素晴らしい(笑)ぜんぜん聴いているつもりはなく、頭ではただ女生徒たちを見ていたつもりだったのに(笑)耳だけで、見事に引き込まれてました。園子ミリアム・ヴェルデ。ノルウェーの、若いヴァイオリニストのデビュー盤です。指揮も同じくノルウェーの女性、タビタ・ベルグルンドが担当。ぜひ一度聴いてみて下さい。

…ということで、FBページほかにも書いたように、昨年来、あらためて博士論文を今回はなんとか完成してみようとしているため、趣味の(?)クラシック新譜の試聴も滞りがちで、現時点で2022年の新譜を語る、というのはやや無理があるという自覚はあるのですが(笑) とりあえず、小耳に挟んで印象に残った録音を、上半期では…という限定つきで、短い夏休み記念にポストしておきます;)

部門分けできるまで聴いていないけれど、しかし、今年ここまで聴いた中では、やはりまず、このサヴァルのベートーヴェン交響曲全集(第2巻)を挙げておきたいです。

Beethoven: Symphonies 6-9 Jordi Savall & Le Concert des Nations

’20年、ベートーヴェン・イヤーに出た第1−第5番の第1巻に続き、第6−9番が収められています。

(ベートーヴェン・イヤーに出た5番、いわゆる「運命」については、このページではクルレンツィスの録音を紹介しましたが、偶然ブラインドで聴いてみると、フランソワ-グザヴィエ・ロトの演奏もなかなかどうして、面白かったことを追記しておきます;)

スペイン古楽の雄、ご存知ジョルディ・サヴァル。この人も、古楽出身の先輩指揮者たちと同じコースで、そろそろ古典派〜ロマン派の録音にピリオド(時代)楽器で取り組む時期に来ているのか…。この第2巻では、まず聴いた6番田園』が、あ、これは『田園』の新しいスタンダードになるかも。。と思っただけでなく、さらに第9にも驚きました。

以前アバドのベートーヴェンを紹介してみたもことありますが、それを一段とライトウェイトにした超コンパクトなシャイー、そして同じく以前紹介したサロネンの3番『英雄』など、モダン・オーケストラのスター指揮者たちのスマートで、コントロールの利いた演奏。やはり現代のベートーヴェンはこういう風しかないのかな。。と思っていたけど、サヴァルの演奏はまた、それとはまったく違っていました。

演出過多でもコントロール過多でも、今流行りのキビキビ快速演奏でもソリッドな筋肉質でもなく、もっと伸びやかに、美しい、自然な息遣い。なのに、それでいてだんだん聴いてると、踊りだすようなリズム感についつい引き込まれ、最後には、もう千度聴いたはずの(笑)人類愛に包まれて、改めて胸を打たれてしまう…。

いや、どなたからも既に高評価を受けているに違いないこのコフレですが、第9に関しても、新時代のスタンダード、最有力候補では?という気がします。
Covid-19のため、録音は困難を極め、最後は指揮者のサヴァル自身まで感染しながら(!)なんとか完成させた、という執念の(?)力作らしいです;)

管弦楽曲は現段階ではとりあえず飛ばして(笑)器楽。ピアノは好きなので、自然と気になるアルバムも多いのですが。。

まず、モンポウ。『ひそやかな音楽』——原題は、フランス語で聞いた説明だと、“口を閉ざす音楽”、というような意味らしく、“もっとも沈黙に近い音楽”という、いかにも20世紀らしい、逆説的なコンセプトで、とりわけピアノ・ファンにはかつてのサティと同じような、高い人気があるようです。

しかし僕は、どうもよく判らない(笑)さまざまに名演、名録音、といわれるものはありながら、作曲者モンポウ自身の録音が、結局いちばんしっくり来るような。。そんな印象を持っていました。
ところが、この新録は、一聴、素晴らしい。おーっ。。と思って、そのままずーっと聴いてしまいました:Música callada – Josep Colom

同じカタルーニャのヴェテランによる演奏、この人は既にモンポウの全集を録音済みらしいけど、Covid-19によるロックダウンで、75歳にして自宅での再録音を思い立った、ということです。
(Covidのロックダウンから生まれたクラシックのレコーディングには驚異的なほど豊穣なものがあり、優れたミュジコローグであれば、この主題で非常にいい本が書けるはず…。
また、検索してみたら、このピアニストは、Youtubeにもバッハとショパンを交互に弾く、というとても面白いコンサートが。題して“ショパンにおけるバッハの足跡”;)

一方これは昨年聴いたものかもしれませんが、作曲者モンポウ自身のテイクでも、新しくライヴ録音のアーカイヴが:
Mompou Live: Montserrat Alavedra and Federico Mompou

『ひそやかな音楽』からの何曲かの他に、初期の作品集からの「庭の娘たち」などが特に印象に残る他、ヴァレリーの詩による歌曲集も収められている…。『ひそやかな音楽』の楽譜の中にもヴァレリーの詩句が書き込まれていると聞くが、この歌曲は、かなり20世紀っぽい(笑) 既にモンポウ自身の全集を聴いている人にもぜひお薦めしたい、緊張感の高いライヴ演奏の記録。

ところで、なぜ作曲家本人の演奏ではなく、後世のピアニストによる優れた演奏が聴きたいと思うか、というと、他人に弾かれることによって、作品の素晴らしさが、ある意味で「客観的」なものになる、と考えられるから。
もちろん音楽の感動は「主観的」なものだけど、他の人が弾いても、その奏者に優れた音楽性があればやはり素晴らしい音楽は生まれる。また、十分な音楽性のあるリスナーであれば、その音楽の素晴らしさはやはりちゃんと理解できる…。
弾くのも、聴くのも、もちろん毎回ある個人でしかないけれど、適切な能力さえあれば、結局、誰が弾いても、誰が聴いてもいい、ということになる。それは、個人だけど、誰でもいい、どんな個人であってもいい。つまり、「任意の」個人でいい。この「個人」は、実は「特定の」個人とは、質的に大きく違っている。作品のよさは、その時、いってみれば、客観的な主観性、というようなものになる(逆説的に聞こえるでしょうが・笑)

100年前からみんながいいといっている本や小説も、現代の読者が読んでも、どんな読者が読んでも、ある程度理解する素地さえあれば、誰でもいい本だということが判る。音楽も同じことで、それこそが普通によくいわれる「時の試練を経る」ということであり、また「古典」ということなのだと思うのですが、もう一歩そこで踏み込んで考えると、つまり、そこには「客観的な感動(=主観性)」とでも呼ぶべきものが認められる。理論的には、そういうふうに説明できる、と思います。
芸術というのは、蓋しこの「客観的な主観性」を目指すもの、ではないでしょうか。

20世紀ピアノ作品で、これも名演と呼ばれる録音は数々あるものの、じゃあ、どれがお薦め? と訊かれるとはたと困る、という感じがややあった、プロコフィエフの「戦争ソナタ」(個人の困惑です・笑) これについても、今年のこのアルバムは、どうだろう:
Prokofiev: Piano Sonatas Nos. 6-8 – Severin von Eckardstein

プロコの諧謔味というか、独特のユーモアが、軽やかに、鮮やかに、ひらめくように刻まれる。「戦争ソナタ」にパーカッシヴな部分が重要なのはいうまでもないが、打鍵やリズム感だけでなく、音色の美しさ、ディナミティーク、むしろピアノ(弱音)が素晴らしい演奏で、決定版かはともかく、とてもいい。

この3曲の「戦争ソナタ」がなぜ「戦争ソナタ」と呼ばれるのかというと、1938-1944年という独ソ戦のさなかに書かれたためであり、このソ連とナチスの戦争こそ、まさに現下のウクライナ侵攻にプーチンが重ね合わせようとしている戦争で、さらにいえば、ロシア〜ソ連の作曲家、とされるプロコフィエフじしん、音楽家の宝庫ウクライナ、それも東部、ドネツク州の出身、という(戦争のおかげで、もはやウクライナの地名が日本でも人口に膾炙している、というのは皮肉だが。。)

先ほどの話につなげてみれば、つまり、ギレリスや初演者のひとりでもあるリヒテルはもちろん、グールドやアシュケナージやポリーニは(まだ子ども、幼児だったとはいえ)「戦争ソナタ」、第2次世界大戦当時の空気を吸っていたピアニストたち。それに対してこのアルバムのセヴェリン・フォン・エッカルトシュタインは1978年生まれ。第2次世界大戦やナチスを、歴史として学ぶしかない世代で、その分その演奏は、どうしても、古典に接する姿勢に近くなる。生々しい同時代の音楽から、距離をおいて、後世のひとりの(任意の)演奏家としてその素晴らしさを再現する、そういう客観化によって作品の全体像がより摑みやすくなってきつつあるのではないだろうか…。

ウクライナといえば、僕自身も、パリで知り合った何人かのウクライナ人の面影がまず心に浮かぶ。ウクライナに戻ってはいないだろう、とは思うものの、家族は戦火に巻き込まれたかもしれない。それほど親しかったわけではないけれど、ウクライナ戦争の話を聞くたびに、やはり彼女たちの安否にふと思いをいたさずにはいられない。

ウクライナ戦争に反対する日本のピアニストは、やはり今こそ「戦争ソナタ」をみんなに聴かせるべきではないか、と思う。
…あ。でも、これも去年のアルバムだったかもしれない。しかしまぁ、聴いたのは、今年なので。。(笑)

ピアノ・アルバムの最後にぜひ挙げておきたいのが、ドビュッシー。とりわけここに収められた、映像第1集「水の反映」:

Debussy & Murail: Révolutions- François-Frédéric Guy

「水の反映」は、もし昔ドビュッシーで一番好きな曲は?と訊かれたら、答えに挙げていたんではないか、という時期がだいぶ長くあり(笑)決定版が判らない、というのとはむしろ逆…というか、以前ショパンのバラード1番について、いろいろ聴くけど結局最後はアシュケナージの2回目のレコーディングに戻って、ちょっと落ち着くところがある、というような話も書いたけど(笑)「水の反映」の場合、その最後に落ち着く先は、、そう。ミケランジェリでした(笑)
他の演奏を聴いてもどうもしっくりこない、と思っていたが。。この演奏。
ミケランジェリのような透徹した美しい音、というのとはだいぶ違って、むしろ甘く、コケットで、シャルマント(チャーミング)。それでいて演奏自体の進行、構成感も間然するところなく、あるべきところに音が鳴る。
聴いてみると、前奏曲第2巻も同じようなことがいえるけど、まずはこの「水の反映」に、その美質は判りやすい。
さらに併録のミライユは現代フランスの作曲家で、ドビュッシーと通じるところはあるけれど。。一旦そちらは後回し、でもいいかもしれない;)

管弦楽曲だけでなく、室内楽もとりあえず今回はスキップ;) で、もう1セット、器楽から、バッハ無伴奏チェロ組曲を:
J.S. Bach: The Complete Cello Suites – Bruno Philippe

みんな大好きなこの天下の大名曲も、カザルス、フルニエなどの歴史的録音の後は、ビルスマがモダン楽器でソニーに入れた録音がいまだに大定番;) たしかに今日聴いてなお、示唆に富む知的な演奏、ではあるのだけれど、思えばしかし、もはや30年前の演奏で(1992)。そろそろ何か、現代の空気を吸ってながれ出す、新しい演奏(インタープリテーション)で、この名曲にもう一度生命を与えてもらえないものだろうか…。

フランス注目の若手、ブリュノ・フィリップがそこで、やってくれました。
いろいろなエディションの楽譜を突き合わせ、この曲集への自分の先入観を消しゴムで消し去るようにして、まったく清新な演奏を試みた、といいますが、確かに聴きすすめていくうちに、近年の多くの録音とはだんだんはっきり違ってくる…。つまり、そもそも名曲で、手本になる過去の名録音もたくさんあるから、近年の新しい録音にもなかなか面白いものは少なくない。でも聴いてると、あるところで、まぁ、もういいか、と思う(笑) だいたい判ったような気がする…というか、つまり、いまのところ、自分の受容のキャパシティとしては、ということだが…(曲数が多いため、ということもある。LP時代は3枚組、CDでも2枚組、でした;)
それがこのブリュノ・フィリップ盤は、新鮮な感覚が続きます。ひとつには、この人のリズム感、スゥイング感みたいなものに引き込まれるから、なのか。。これもCovid、ロックダウンの果実のひとつ。
(Covidのロックダウンで、クラシックの音楽家がまず向かったのはバッハ。ロックダウン後半で、ピアニストの場合はブラームスに向かう…という流れがあったように思います;)

おいしい食事や、ほんとにいいワインを飲んだことがあると、たしかに不味いものの不味さはめちゃくちゃ判ってしまいます(笑)
けれど、あの日、あの時、あの食事、あのワインがあるから、もうあれ以上の経験はないんだ、と決めてしまうのも、どうでしょう。
ちょうど、昔の恋人の思い出にいつまでも生き続ける人のようで、それをロマンティック、ともいえるけど、でも少しずつ、心は乾いていくでしょう。石にはならないかもだけど、“即身成仏”にはなるかもしれない。。(笑)

僕は新譜を聴くことをお薦めします。なんといっても、クラシックの場合、素晴らしい新譜はほんとにたくさんあるのだから!

バッハに来たところで、宗教曲・声楽曲セクションより(笑)ピションの「マタイ受難曲」を最後に紹介させてください。
J. S. Bach: Matthäus-Passion, BWV 244 – Raphaël Pichon, Pygmalion, Maitrise De Radio France;
Julian Prégardien, Stéphane Degout, Sabine Devieilhe, Lucile Richardot, Christian Immler, Reinoud van Mechelen

タイトルにも掲げたとおり、実はこのアルバムが、今回のポストを作ろう(時間はないけど!;)と決意した、何よりのきっかけ、でした。

人類の(と大きく出ますが!)音楽遺産、といえば、今回はサヴァル盤を挙げたベートーヴェン、第9を思い浮かべる人も多いかもしれません。
しかしこの質問をクラシック・ファンに投げかけると、あるいは、「マタイ」という答えが返ってくるのでは?
当然ながら、リヒターやラインハルト、エルヴェッグやクイケン、ガーディナーなど、僕も有名なものは聴いてきたし、非常に立派で、素晴らしい、たいへん結構な音楽であることは、よく判っています。判っていますが、先ほどのチェロ組曲の場合と似て(…この話、1995年の2冊目のエッセイ集でも書いたような気がしてきましたが。。)
なるほど、素晴らしいですね、では続きはまたいつか…というようなことで、なかなか集中力が続かない。つまり、どこか“正座”して聴くような音楽で、いわば、その“正座がもたなくなる”感じ(判りますか?w)、「ありがとうございました、また勉強させていただきます」という心で、降参してしまう。。(笑)

そういえば、武満徹が死んだ時、最後に聴いた音楽は「マタイ」だった、という話を広めたのは、立花隆だったと思いますが、これなんか、ストラヴィンスキーが晩年ベートーヴェンのカルテットを聴いていた、という話と同じくらい、よく出来た逸話(笑)
ベートーヴェンの後期カルテットも、「マタイ」も、死ぬ前にこういう音楽を聴きたいと心から思えるような、そういう人に私はなりたい、といえるような音楽、ではないでしょうか(…判りますか?w)
そういうわけで、「マタイ」というのはぜひいつか判りたい、子どもの頃の、“岩波文庫のような音楽”だったわけですね。。(笑)

それがこのピションの「マタイ」は、すーっと心に入ってくる…。
こういうと、めちゃくちゃ語弊があると思うけど、部分的には、それこそフォレのレクイエムを聴くくらいの、優しい気持ちで聴いてしまえる。
やや語弊を減じていうと(笑)大バッハというより、その息子、ある種のCPEバッハの宗教曲を聴くくらいの気持ちで聴くことができる(笑)
…ということには、もちろん、これにもいろいろ問題があり、カール・フィリップ・エマニュエルは、父バッハの伝統を継承すべく、宗教曲では特に父のスタイルのうち、受け入れられる部分を引き継ごうとした、といったほうがより正し目、でしょう;)
そしてCPEの宗教曲が受け継いだのは、大バッハの中でも、とりわけ優しい部分だったのではないか、という気がいたします。

上記の喩え話は、いろいろミスリーディングだったかもしれません。
しかしともかく、「マタイ」が好き、といえるのは、音楽ファンとして、子どもの頃からの僕の《夢》のひとつでした。
その夢が、ひとつかなった、忘れがたい夏になりました。このアルバムのおかげです。
これまで「マタイ」がそんなに好きじゃなかった人も、ぜひ、ピションの「マタイ」、聴いてみてください。

* * *

ということで、2022上半期新譜早耳ハイライトはここまでにしたい、と思いますが、話のついでに(笑)
旧譜で新たにその魅力に気づいた、というものも、2つだけ紹介しておきます(#旧盤知新)

まず、バルトークの短いオペラ「青ひげ公の城」。

バルトークというのも、バッハの「マタイ」やべートーヴェンの後期カルテットと並んで、子どもの頃、大人になったらそのよさをぜひ判りたい、“憧れ”の音楽のひとつでした。
(これは戦後日本の知識人が、バルトークを非常に高く評価していたことの影響だと思います)
しかしこれもなかなか手強いというか、心から大好き!!というのは難しい音楽で(再び、個人の困難です・笑)

しかし「青ひげ公の城」に関しては、たまたま聴いてみたショルティ盤が(ほんとに古いですが!)、意外とふつうに楽しめました。
「困った時のショルティ、カラヤン」という考え方が僕にはひとつ、あるのですが、これについては、また改めましょう。。;)

ヴァーグナーが好きで、ドビュッシーの「ペレアス」が好きなら、この演奏は、楽しめるはず。1時間程度で聞けるので、時間のある時にぜひ聴いてみてください。youtubeでまとめておきました。

もうひとつは、エレン・グリモーベートーヴェン後期ピアノ・ソナタ。これはもう少し新しいですが(笑)
ベートーヴェンのアルティメット・ソナタは、どれもほんとに素晴らしく、子どもの頃から名盤といわれていたポリーニで基本的に満足し(笑)あとはリヒテルのライヴや、パリでは転居当時よくかかっていたペッコヌのフォレに驚いて、図書館でベートーヴェン後期も見つけて聴いてみる、などの出会いはなくもなかったのですが、基本的には即身成仏化しつつありました(笑)

しかもエレンヌ・グリモーは、フランス人なのにフランスのピアノ曲には興味がない、といい(当時。いまはラヴェルなども入れていますね!)、アメリカに住んで狼の世話をしてるらしい。その上見た目まで可愛いので(笑)ちょっと、どこからも手を付けられない感じが正直あった。。
が、このソナタを聴いてみると、いや、不明を恥じる、としかいいようがない(笑)

とにかくこの人は、指が強い、それもバラバラに強い感じがする。音楽性は違うけど、ちょっとグールドを思い起こしたところもありました(笑)

グリモーは、特に若い頃、初期のdenonやerato等の録音は聴いてみたかぎり素晴らしい、ブラームスなんかも素晴らしい。
…しかしその美質がまっすぐ出てきているのは、このベートヴェン後期ソナタではないか、と思います;)
聴いていると、あちこちで、バラバラに、デジタル的に、思いがけない離れた場所に音が現れ、明滅するような感覚に、だんだん眩暈がしてきます(笑)
これもyoutubeにまとめておきました。
(最後にリストの「エステ荘の噴水」も入れておきましたが、これはDG移籍後ですね。。)

* * *

ホームページ、今年2回目のポストになりました。3回目もあるかもしれませんが(笑)ソシャメにはいろいろポストしています。
最近ではMediumに『はじめての言語ゲーム』というヴィトゲンシュタインの入門書、新書のレヴューも書きましたし、またそういえば、Twitterには『チョムスキーと言語脳科学』という本についても書きました。こちらはこれまでに読んだ中では一番平易な生成文法の入門書(ここに脳科学に興味を持つ素人のありがちな誤解の例として、立花隆のことばが挙げられていました;)
Mediumはフォローも募集中です(自由にフォローできます。Twitterはなかなかリクエストに気づかないので、先にMediumでフォローして、同じアカウント名から声をかけて下さると、確実です!) FBページは、むしろライクでお願いしますね:)
。。といっていたら、FBページはライク廃止、ですか? あらら。失礼いたしました!

さらに今回は、また新たな試みとして、ポッドキャストも作ってみました*。
ポストを読むのは時間がない、という人も、通勤や車の運転中に聴くことだったらできるかも。。などと考えました;)
特に今回の場合、紹介している音楽の試聴もできて、いいのでは??

短い夏休みを縫うように、このポストとポッドキャストを今回は作っておきました。
たまのポストだと、その分書きたいことも、お知らせしたいことも、多くなりますが。。
ますます暑かった今年の夏も、そろそろ終わり。。でしょうか。
どうぞみなさま、よい夏のおわりをお過ごしください。
Bonne fin de vacances !

* ポッドキャストは、公開してみたところ、音楽に関しては、spotify アプリから、有料会員のみ全曲聴くことができるようです。無料会員は30秒のハイライトのみかかります(残念!) ハイライトもかからない場合はアプリのヴァージョンのアップデートが必要かもしれません…。

以下にも埋め込んでおきますが、Spotifyアプリ以外からは音楽は完全にカットされてしまいますので、面倒でもアプリで聴いてみてくださいね。

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