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 海 の 猫 た ち



 そこに猫がいることを、猫が好きだと見逃さない。
 海辺にはいつもたくさん猫がいるような気がする。海に行くと、決まって猫たちを発見するからだが、とくに暮らしやすい環境なのだろうか。なんということなくすっと佇んで、こちらを見ている風情などでも、印象に残った猫があちこちのビーチにいた。根っからのノラは人間を信じないから、こちらへ関心は持ってもそばへはやってこず、僕としてもヤアヤアと声をかけるくらいで、あまり親交を深めることができない。猫は基本的に、用心深くて臆病な生き物なのだ。
 ノラではなく、少しは親交を深めることができた猫で、マウイ島のラハイナの町を少し出はずれたあたり、眩しい海岸線沿いのひっそりした土産物屋にいた猫がいて、この猫について思い出すことは、日本語がまるで判らないようだったことだ。つまり、たとえば、日本語で「猫、猫」とか、「なんだ、なんだ?」とかいっても、完全に無反応だった。
 そこでふと思いつき、若干自分がばかっぽくもあったが、まぁひと気もなかったので、ものは試し、英語で話しかけてみた。いくらアメリカ猫だからといって、猫に英語もないだろう、と思いながらも。ところが英語にしたとたん、ひょっ、と立ちあがり、ひゅるひゅるっとこちらへやって来るではないか。うーむ、と科学するココロで、その後も交互に少し試してみたが、明らかに英語のほうに反応がある。猫的にもやはり耳なじみというか、正確な意味あいは判らないなりにも“ちゃんとしたことば”に聞こえるのかもしれない。つまり、《お、このおおきい猫( = 猫的に見た人間)は、例の、なにかを伝えるときのいつもの鳴きごえの一種をだしているぞ。。。意味は、よくわからんけど》と、まぁ、こんなロジカルではないにせよ、だ。
 そういえば、僕の飼っていた猫も、いつも僕が話しかけるとしばらくは賢そうに、きれいな緑の目をしてじっと耳を澄ましているが、そのうち話の内容がだんだん複雑になり長くなり、抽象的に(たぶん、猫的には)なってくると、困ったような居心地悪そうな顔をして、ちょっと目を細めたりなどして間を持たせていたものだ。《そんなにいろいろいわれても、ぼくには意味はわからんし…》という感じである。
 ヘンな話だが、猫や犬を見ると、あたりに人がいなければ僕は必ず声をかけてみるのだが、いや、ヘンというのはそのこと自体ではなく(異論はあろう)猫や犬に話しかける時、僕は決まって関西弁になっている。これは小さな子ども、学校に上がる前くらいまでの子どもにふいに話しかけられた時もそうで、ずっと東京にいた時でも咄嗟に関西弁が出てきて、自分でも驚いた。結局これは、関西弁というのが僕にとっての幼児語だからなのだろう。猫に話しかける時も、ゆっくり丁寧に話すと同時に、気づくと関西弁を使っている。真剣になにかを伝えようと力が入ると、自然にそうなっている。そのほうがなんだかうまく伝わりやすいような気がするのだ。相手が子どもと、動物の時は。
 だから前にあげた話しかけたことばの例「なんだ、なんだ?」は、ほんとうは「なんや、なんや?」で、これは「やぁ、なにをしているんだい?」という僕の問いかけであると同時に、とつぜん見知らぬ人間に意味不明の人間語で話しかけられ「なんだ、なんだ?」とcuriousな、その猫の内声を代弁してもいるわけだ。と説明しても、なるほどなるほど、とは思ってもらえないとは思うけど。

 そこに猫がいなくても、僕は海が好きなので、海辺に行くととても気持ちが楽になる。書く小説のなかにも長篇だとまず、必ずどこかで海が出てくる。そういうのもそれはそれでどうなのかと思い、いち度だけ意図的に景色の中から海をフレーム・アウトしてみたこともあったが(『アーリィ・オータム』)ほっておくと自然に出てくるという感じだ。そして、海の場面を書くといつも、長い作品の中でちょっとひと息つけるような気分がする。
 そんなに海が好きだと思っているのに、マリン・スポーツは特にしないから、ちょっともったいないかなと時々思う。ひとつには僕が街育ちで、海といったときイメージするのがその中へ入ってみたくなるような海というより、ビーチや防波堤、港、そして遠く向こうに見える海、というような、風景としての海だからかもしれない。
 そういえばバハマに行った時は、あそこの海はほんとうにきれいだから、もう海の中に入っているだけで楽しくて、柄にもなくジェット・スキーでぶっ飛ばしてリーフの端まで見にいってみたりもしたが、基本的にはなんのことはない、ただ泳いでばかりいたのだが、夕方になり、ホテルに引きあげる時には、思わずなんども海をふりかえってしまったほどだった。子どもの頃にそれでも何回かは経験した、いつまでも帰りたくない、懐かしい海を思い出した時間だった。

次頁へ続く)

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