ベストバイ・ミュンシュ指揮ベルリオーズ『幻想交響曲』

4 À l’ombre de jeunesse perdue…

*いい音楽*の基準

フランスのラジオから僕が学んだこと、といえば、他にも数多い:
もうなくなってしまったが、音楽家の朝、という番組があって、これは毎朝曜日ごとのDJがクラシックやジャズを解説する、それがことばだけでなく、本人やゲストが実際に楽器を弾き分け様々な違い説明してくれる、という本当に面白い番組だった。(これがどんな感じか、例えばFlorent Boffardのシェーンベルクのピアノ曲集に付属しているdvdでやっていること…このアルバムリリース時、Boffardは出演し、実演したようにも記憶するが…こういうことを始終やっていた。この辺り、いずれもう少し書いておきたい気もする。。)

そして今も続いてる音盤討論、という週末の番組がある。これについてはこちらで紹介したtumblrブログ・ポスト(ベストバイ・フォレ『レクイエム』)にも書いてるが、毎週名曲のディスク5枚をブラインドで音楽評論家3人が聴き比べ、最終的に1枚を選ぶ、というもの。合議の上落選と決めるまで演奏者名は明かされず、名演中の名演として名高い定盤や、評論家自身が*枕頭の1枚*と称賛していたものを、聴き分けられずに落としてしまうことさえあって(笑)かなり面白い。
また、僕はそもそも音楽をことばで語ること自体に昔から疑問を持っていたが、しかしこの番組を聞くと、果たしてここに自分が参加して討論に加わることができるだろうか…つまり、フランス語の問題ではなく、たとえ何語であっても可能だろうか。。それは語学力ではなく、言語能力の問題で、そう自問すると、音楽をことばで語ることもまた、ここまで行くなら、それはそれとして、やはりひとつの高い能力ではないか…と考えを改めた。

そんなこの番組で、『幻想交響曲』の聴き比べをやっており(というか、聴き比べだったからこの番組だったと思うのだが)、その時、特に1楽章、これはなかなかいいな、と気に入って、誰だろう…と僕が思った演奏が、驚いたことに、結局、シャルル・ミュンシュ、ボストン・シンフォニー、58年の録音、だった。
これも本当に有名な録音で、大定番のミュンシュ『幻想』(複数形;)中の、外すことのできない1枚なのだが。。このディスクを僕は*もちろん*聴いてはなかった。
なぜか。…いや、だから、現代の、一山いくら、グロスでいくら、のストリーミング時代、もはや判らない話だろうが(笑)あのカラヤンの1枚がてんでダメな、お話にもならないアルバムと判っていながら、買い直すことができなかったように(笑)同じ曲のレコードを何枚も買うのは、昔、特に子どもには難しかった。その感覚は強力で、再び『幻想』を買うのなら、もうこの上、失敗チョイスは許されない。
よって、当然世の主流派たちが声をそろえて唱える:
《フランスの音楽は、フランスの演奏家、フランスのオケで聴いてこそ本物である》
という呪縛に従って、
…ボストン・シンフォニー? だって、それアメリカでしょ? そんなの、またニセモノに決まってんじゃん。こっちに超オーセンティックなパリ管録音があるのに、これでまた間違えたら、ばかでしょ、ばか? fool me twice, shame on me、もう二度と、その手は桑名の焼き蛤。。というわけで、素直にミュンシュ、パリ管セッション録音盤を買い、それだけ聴いて、判ったつもりに(というか僕の場合、判らないつもりに;)なっていた。。

そこで、ミュンシュ、ボストン58年盤…米RCAの当時最先端のステレオ録音、Living Stereoシリーズ中でも、奇跡の名録音とされる著名な1枚なのだが、これを、初めて全編ちゃんと聴いてみると、67年パリ管ライヴ盤(僕の中でのマボロシ化していた;)と比してもある意味、全然悪くない…。
なんだ、ミュンシュ『幻想』はダメ、自分には判らない…と悲観していたが、問題なく、ふつうにいいではないか。。
…ということは、逆に、67年パリ管セッション録音盤がつまらなかった、ということか。。
しかし、あれを天下の大定番と推する人はむしろ主流派であるように思われる。
では一体、なぜ僕にはいいと思えなかったのか…。
そんなことを間歇的に考えるうち、ふと高校の頃、自分がいったことを思い出した。

どうしてそんな話になったかは憶えていない。がそれが硬式テニス部の子だったことは、憶えている。僕に
「クラシック音楽は判らない、と思っていたけど、最近だんだんよさが判ってきたかも。時々、聴いてると、ああ、すごくきれいだなぁ、この音楽にずっと包まれていたいなぁ、と思って、だから、クラシックが好きな人は、きっとこういうとこが好きなのかなぁ…って思うんだ」
そういってくれた、もちろん、それは気を使っていってくれたのだ、と思う。だいたい硬式テニス部に(笑)僕から音楽の話を始めるわけもない。今もそうだが、自分の話があまりよく理解されないことに僕は自覚がある(笑)そして、理解されなければ、それは自分のせいだとしても、やっぱりふつうに落胆するから…。
今にして思い起こせば、わざわざ僕の得意そうな話題を選んでくれた、そんな優しい気持ちのある子だったんだなぁ…とふと思う。が、その時は、
「いや、それは全然違うよ」にべもなく僕はいったのだった。「音楽っていうのは、ノリだよ、ノリ。クラシックも、ロックも同じで、ノリで聴く。きれいとか、立派な音楽だから、とかじゃなんだよ」
…こういう自分の失敗談なら、まさに枚挙にいとまはない(笑)
「そっか。だったら、やっぱり、判らないのかなぁ。。」
ちょっと寂しそうにその子はいって、そのまま僕らの会話は夕闇の中、どう続いたのか、続かなかったのか。杳としてあとは思い出せない。

なぜ出し抜けに、こんなとりとめもない断片的な記憶が出てきたかは判らないが、これが僕の音楽に対する基本的なスタンスを一片表しており、また、問題の、多くの人の認めるミュンシュ、パリ管盤を好きになれなかった理由にも、そのまま繋がるような気が今はする。
つまり、冒頭に書いた、いいレコード、いい演奏、いい音楽、という時に、一体何を自分は基準にしているか、ということだ。
それは、ただ単にきれいとか心地いい、ということではない。
もっと何か圧倒的に、引きずり込まれるようなもの。。
ごく具体的な基準でいうなら、日常の中では僕も何か他のことをしながら音楽をかけていることが多い。
しかし、願わくば、僕がいい音楽、と思う音楽は、その僕の手を止める、他のことをやめさせる、ふと気づけば音楽を聴く以外、何もできなくなってしまう。。その程度の吸引力を感じて初めて、これはいい、これはいい音楽だ、と僕は自分にいうのだ、と思う。きれいで心地よくいい気分にしてくれる、というよりも、こちらの心を占有してしまうような。。
この基準で、ミュンシュ指揮ベルリーズ『幻想交響曲』、大定番の名録音(複数形)を見直すと、さて、どうなるか…。

…と、話は途中だが、いま、ついでに、あの子どもの僕が買って*しまった*(笑)カラヤンの『幻想』。調べてみると、現在手に入りやすいのは、この中古盤くらい。やはり評価は低いのであった(笑)
けれど今でもあの演奏が、あの夕映えのジャケットが。ふと懐かしいことが僕にはあります;)

5 Méseglise et Guermantes…へ続く)

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