モディアノ翻訳計画・番外篇*L’Horizon〜ほんとうの悲しみと幸福を知る、大人のための“ファンタジー”

『失われた時のカフェで』併録の解説「『失われた時のカフェで』とパトリック・モディアノの世界」で書いた通り、モディアノ作品のひとつの特徴が“オートフィクション”です。あちらを読んで下さった方はあるいはご記憶だと思うのですが、オートフィクションとは、まず自伝とフィクションのあいだに位置するものです。所謂『一人称』がそこでは基本になるのは自然です。
(もちろん、所謂『三人称』で書かれた有名・重要な『自伝』もあることはあるわけですが;)

一方『失われた時のカフェで』のなかでは、たとえばボーイングはカフェの客の出入りをひたすら記録し続けていますし、ロランは『中立地帯』についてのエッセイ(?)を書こうとしています。
モディアノ作品では、この作中人物が作中で“作品”を書く、というのもおなじみの構造でした。
僕の愛してやまないQuartier perduc.f.=>)では話者が作中で作品を書きはじめる後半と前半がばっくり二つに分かれていましたし(笑)90年前後のモディアノ中期の傑作Vestiaire de l’enfanceVoyage de noceでも作中に別の物語がはめ込まれています。とくにVoyage de noceでは、その部分が所謂『三人称』のかたちをとっていました。
(このみっつの日本語未訳作品については、できればいずれレヴューしてみたい、と思っていますので、お楽しみに!;)
これらの作品では、あるいはモディアノがほんとに書きたかったのは、作中にはめ込まれた“作品”のほうで、全体の物語はむしろそれを導き出す背景なのではないか、という印象さえ時に覚えます…。

…というような意味で、所謂『一人称』の枠組みで多くの主要な小説を書いているモディアノが、いきなり冒頭から、よりクラシックで小説的な(といってもいいでしょう)所謂『三人称』でこのロマン、長篇小説をはじめている!というのはファンにとっては、事件です;)
in medias res いきなり話の核心へ!?というような印象も持ってしまうわけです;)

…あと個人的に、この作品の魅力として挙げたいのが、中盤ヒロインの過去が明かされる部分—…うーん、たしかにこういうと、これはやっぱり『失われた時のカフェで』に次いで書かれた作品、はっきりとした連続性も見られますね;)—ここももちろん所謂『三人称』なのですが、ヒロインの視点に従っています。
(まぁ、ナラトロジーだとフォカリザション、という概念を使って説明したりもするのですが…この概念も、いまは非常に批判されていますので、うかつには使えない部分もありますね;)c.f.=>

ここがやっぱり全篇の中で、僕はいちばん生き生きしているようにも感じました。
『時カフェ』でいえばルキのナラション、あるいは作品集Des inconnuesなどのモディアノの近年の「視点の女性化」の試みの蓄積が、ここでも生きていると思いますし、そのなかでもまた一段とレヴェルが上がっている…。
モディアノの女性の視点を採用した作品、まだまだ読んでみたい、という気がしました;)

さらにこまかいことになりますが(笑)この作品ではなんと、コンピュータがひとつの役割を演じています。
また、ベルシーやビブリオテックといった、パリの現代の再開発地域を、主人公に極めてポジティヴなものとして捉えさせている、という点もかなり印象的でした。
…パリなんて、ちょっと知ってるだけの人だって、ただの観光客だって、昔のパリのほうがよかった、と平気でいいかねません(笑)
それを、パリの街を愛する、ということでは恐らく当代きって、目をつぶってでも歩けそうなモディアノが(実際、古いパリが全て記憶の中にあって、もう実際にはパリの街を歩く必要さえほとんどない、というようなことをTVでいっていました)この現代建築の、古いパリにはまったくそぐわない再開発地域を肯定的に描いている。むしろ興味津々、という姿勢で捉えている…。
このあたりもまた、やはりモディアノは必ずしも「ノスタルジックな作家」ではなく、いつまでも若々しい感性を持っている人なのだなぁ、と感心させられるところでした;)

…さて。
今回この作品を改めてしっかり通読してみて僕が思い出したのは、じつは『失われた時のカフェで』の感想としてこちらのHPにコメントいただいた感想です:
“ものすごく深い喪失感を持つ人に与えられたファンタジー”
(どうもありがとうございました!)

前作『失われた時のカフェで』。解説では、あの結末は、ひとつの象徴的なものとしても理解することができる、ということも書きました。しかしそれにしても、あの作品が全体としてやはりとても悲劇的だっただけに、それに続く本作L’Horizonの結末は、非常に暖かいものになっています。

…これはかなり恣意的な見方のようですが、こういうコントラストは、これまでのモディアノ作品の流れの中でもありましたし、一般に、たとえばオペラの例になりますが、『トリスタン』を作ったあとにヴァーグナーは『マイスタージンガー』を作りましたし、あれほど悲劇を得意としたヴェルディが最後に作ったのは大団円の喜劇『ファルスタッフ』でした…。こういうバランスのとり方、というのはビオグラフィックに見ていくと創作者のなかにはわりにあるように思います;)

『失われた時のカフェで』を読んで、とり残されてしまったような、呆然とした気持ち。その気持ちをそっと抱きしめてくれるような、「そう、それでいいんだよ」といってくれるような、そんなこの作品の結末です。

あるいは、いまはどうか知りませんが、以前の韓国映画やドラマによくあったような、未来への希望をしみじみと漂わせるエンディング…。

…そういう意味では、韓国人は、もしかしたらこの作品は大好きかもしれない、などとも思います;)だって、あらすじからいっても〜だれも訪れることのない書店の店番をしながら、決してかかることのない、あの日去っていった彼女からの約束の電話を待ちつづけた主人公。書店の名前は「砂時計」…うーむ、韓国だったら、即ベストセラー、かもしれません(笑)

これまでも、モディアノ作品で、読者に希望を与えるような結末、というのはいろいろありました。しかしこの作品のエンディングは、そのなかでも非常に完成度が高いというか、ほんとうにむだがない、という感じがします。

—ほんとうの幸福。この作品のエンディングに描かれた以上の幸福は、あるいはこの世には存在しないのかもしれない…そんなことさえ、ふと考えました;)

…そうですね。。。テクニックやスタイルやストラクチャーを別にして、『失われた時のカフェで』とこの作品のどこが決定的に違うのか。敢えていうなら、あるいはそれは、もし『失われた時のカフェで』に愛するひとを失った者の知る、ほんとうの痛切な悲しみが描かれていた、とするならば、この作品にはほんとうの幸福が、モディアノの信ずるほんとうの希望…願いと夢が籠められている、ということかもしれません…。

それを支えているのが、たとえば、この記事、長い前置き部分でいろいろ見たモディアノの絶妙の時間表現や話法の選択です。こういう部分は、フランス語を外国語として憶えた人にはやはり多少なりとも分析的に読まなければ味わいきれないところでしょう。もちろんフランス語母語話者なら何も考えずに読むかもしれません。そしてそのなかで、とくに文学に対する感覚が繊細な人だけが、この作品の面白さが判る、ということになるのだと思います…。

フランス語の、そして文学の…ほんとうに繊細なところまで読み込める・読み込みたい!!という人にこそ、ぜひぜひじっくり読んでいただきたい作品です;)

patrick_modiano
L’Horizon 〜 folio版も登場。
巨匠モディアノ、新たな挑戦、新たな地平。

手軽なFolio版(ペーパーバック版)もnow available ;)
アマゾン JPでも注文できます:)

パトリック・モディアノのページへ戻る

この記事が気に入ったらいいねしよう!

Pocket

This entry was posted in bibliothèque, ナラション理論, パトリック・モディアノ, モディアノ翻訳計画, 翻訳. Bookmark the permalink.

Comments are closed.