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 これを英語でいえますか?



「平中クンは英語が喋れるんでしょう?」と訊かれると「はい、ペラペラです!」と笑顔で爽やかにこたえることにしている。もちろん真っ赤な嘘である。だいたい日本語でだって考え考えのものが英語になったとたん流暢に喋れるとしたら、それはもう間違いなく二重人格ものだろう。そういうことも含めて、まず喋れるとはどういうことかが問題になる。と、「英語が喋れるのか?」というシンプルな質問に対してでさえ、これだけああでもないこうでもないと、行ったり来たり悩むのに、ペラペラ喋れるわけなどない。
 以前これを英語でいえますか、みたいなタイトルの本がでて、ずいぶん売れていたようだ。お陰でその式の脅迫的なタイトルの本が無数にでて、それぞれなかなか売れたようだからなんだかなぁである。柳の下に異常にドジョウが増えたのか、痩せたドジョウでもとれないよりはマシと、本屋が根こそぎドレッジする勢いなのか。おそらく両方なのだろう。嘆かわしいというか情けないというか、もう死んでしまいたい、さあ殺してくれ状態、英語でいえば、Shoot me!である。
 僕はあの本は買わなかったが、それはぱらぱら見てみても興味が持てなかったからで、学校時代の友人も含め何人かとじつはちょっと話してみたのだが、だれも買っていなかった。そして話していくと、買わなかった理由は殆んどみんなおなじだった。つまり、あの本に載っていることは、まぁ所詮僕らがぱらぱら見た感想だから確実とはいえないが、以下の3通りに殆んどぜんぶ大別できる、ということだ。
Q:これを英語でいえますか? といわれれば
1.いえる。
2.載ってるとおりにはいえないが、ほかのいい方でなんとでもいえる。
3.別にいいたくない。――以上。
 整理すれば、ほぼ全員がこういう印象を持っていたのだが、どうだろう?
 1.は文句なくいいとして、僕の場合あるいは圧倒的にだいたい2.だと思うが、これも問題ないとして、3.は、いいたくないのだから「いえますかッ??」などと脅迫的詰め寄られても、なんら痛痒ない。別にいいたくもないことがいえなくたって、そんなことひとつも不安に思うことはない。極端にいえば、英語でいいたいことがなければ英語をいえる必要はまったくないのだし、いうべき内容もないのに外国語を学習しなくてはならないというのは本末転倒もはなはだしいし、そう思う人がいればそれはある種、病的な強迫観念ということになるかもしれない。とにかく、かくして先の本を読む理由は微塵もない、というのが僕らの結論になる…。
 僕はそもそもことば好きなので外国語を勉強するのは面白いのだが、ちょうど野球選手がゴルフをやったりF1ドライヴァーがスキーをやったりするようなものだと思ってもらえばいいかもしれない。なかでも英語との付き合いはとうぜんいちばん長いから、英語については特にあれこれいろいろ考える。学校の英語教育についても、個人的にあたったのは9割がたいい先生方ばかりだったとってもいいが、語学が好きではない人の立場に立てば、ずいぶん検討の余地もあるように思う。
 だいたい学校教育の問題は、勉強が得意で、要はだから勉強が好きで学校も好きだったという人々が、勉強ができなくて勉強が嫌いな人のためにシステムを考えていることで、そんなことがうまくいくわけがない。一般に学校のなかで勉強ができたやつの大半は、それを評価されて当然の自分の価値として受け入れているから、その状況に適応できない人の心が絶対に、概ね生涯、理解できないままなのである。自分が確実に正しいと信じ込んでいる立場にまずいて、反対の立場の人の気持ちをその側から理解しようと切実にする理由はないし、そういうスキルや感受性を、彼らは一切育まないまま思春期を終わってしまう。人間としては、これはほぼ回復不可能な欠陥であって、感受性の不具者であるといっていいだろう。
 僕が語学が好き、というのは勝手にやるのが好きなだけで、学校の語学の授業がスラスラ判ったのは得意だったからというだけのことで、学校の勉強が好きだったことはないし、学校自体が好きだったとすればそれは勉強とはまったく関係ないところにおいてのみなので、自信を持ってこういうのである。また僕の場合、ほかの面では状況に適応できないことばかりで、状況に適応できない人の気持ちは自分自身のこととして判る。そして僕がいちばんすばらしいこと、大事なこととして子ども時代を通じて価値をおいていたのは他人の気持ちを考えることであって、人の気持ちには正解はないから、結果、僕は一貫してフラストレイションを抱えて生きてきた。それを誇るわけにはもちろんいかないが、少なくともフラストレイションに限っていえば、僕は大家であるといっても過言でないだろう。試験の成績がいいことなんかがいいことだと、時にシニカルな気分になってみたりしつつも基本的には最善のことだと思えるのなら、子ども時代は、人生は、なんと生きやすいものだろうと僕には思える…。
次頁へ続く)

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