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語学アラカルト

《はじめに〜シェフのつくったお番菜》


Click Here!  インターネット・ホームWorldClubをはじめて9年目になります。この間WorldClubはひとつ、アーカイヴ的なサイトとしての機能が固まってきました。ところでその後日本でインターネット以上に盛んになったのが携帯電話のカルチャーです。そこで携帯用サイトとしてiHIRANAKAをはじめたのですが、こちらの面白い使い方、というものは、いまだ試行錯誤中です。

 携帯サイトならではの面白さ…。WorldClubがそういうわけで、いい意味でスタティックなサイトであるなら、対比的にiHIRANAKAはダイナミックなものになってもいいな、という発想はわりと自然にあるのですが、ダイナミックといえば、ネットでは今ブログ、モブログが花盛りですね。インターネット、ブログ・ソフトという仕組みに支えられた新しい表現・出版の形式ですが、オリジナルに創造しなくてはならない部分の割合が少ない分、だれにでも容易く参入できる自己表現でもあり、また現状では、特に日本では極めて受け入れられ易い表現形態でもあるのでしょう。(たとえば老舗エキサイトブログ。新興DTIブログ FC2ブログ :どれもそれぞれ優れた点のあるブログのようです)
従来の表現、強い個人性にまず支えられた近代の文学、というものと単純に比較できる部分は少ないのですが、文章、という点だけからみても、既成の文章観を加速度的に破壊・変容させていっていると思います。
 少し具体的にみると、たとえばある日「コイズミ(仮名)って最悪じゃないの?」とふと思ったとしても、そんなものはこれまでだだの消え去る想念でしかありえませんでした。
ところがブログという体裁があれば、「最悪じゃないの?」という、この従来の感覚でいえば殆んど無内容といっていいただの呟きないし独りごとが、そのまま立派な表現になるわけです。

 あるいは、従来の感覚でいえばあるアイディアを普遍化するためにはたいへんな個性や表現力が必要でした。なんでもいいけど「究極の宣伝とは“ベンザエースを買って下さい”と率直にいい切ることだ」というのはひとつの思いつきではあっても、多くの人に「なるほど、それはすごい発想だ」と思わせるには、特別な力量が必要だったわけです。そこが、ブログではつまり、求められるのは発想だけで、後のことは、いわばみんなに丸投げでもOK、なわけですね。

 面白い点は、形式に支えられ、強力な個性、《自分》を必要とせず、だれにも容易い表現を可能にしたこのジャンルが、たったひとつだけ作り手に要求しているものも、実は《自分》だ、ということで、このあたり、僕など70年代のラヴ+ピースにもつながるパーソナル・コンピュータ・カルチャーの歴史のコンセクェンスの不可思議な“ねじれ”のようなものを視ます。つまり、ここでは《自分》の価値への信頼は全てのドライヴィング・フォースであり、最も大切なものであると同時に、その《自分》の力の効力(あるいはその絶対性)は結果的に減じられてもいるのだから…。これは、あるアメリカニズムのアポリアでもあるかもしれない。そもそもパーソナルコンピュータというもの自体、実はかなり左がかった思想運動だったわけだが(笑)表現という、ヨーロッパ近代が生んだ個人の牙城というべきものを、これはいわば共産化しようということで、ソ連は消えても最後にマルクスが笑うのはやはり“歴史の必然”なのか…。いやいや、このあたり、単なる呟きないし独りごと、ということで(笑)

 ともかくこの花盛りのブログ文化というものは、とりあえず、近代社会の成立以降だれもが必ず持っているということになっている《自分》という唯一無二・不変のテーマそのものを直にその中心として、その《自分》が日々どうしても出会わざるをえないよしなしごととのいわばぶつかり合い・軋轢を拾い集め《自分》自身を浮かびあがらせる、という格好で、連日不眠不休の更新が展開されている、そういうものともいえるでしょう。――ややくり返しになりますが、このあたりをドクサ的に捉え、あたかも揺らぎなきものでもあるかのように無反省にそこに立脚しちゃってるところが、PCカルチャーの陥穽ではないかと、要は僕はそう思っているわけですね(笑)自我が唯一無二であるのは近代以降のコンテクストのなかにおいてで、PCも当然そこから出てきたわけですが、たとえば個性が何ものにも代え難い、という観念は、個性の価値を全体に底上げすることによって結果的に相対化された後、いわば“個性のインフレ”にまで果たしてちゃんと耐えうるんだろうか、と思うわけです(笑)

 ところで、ここでさらに話をぐっとねじ曲げまずが、僕は物書きですから、従来の意味での文章表現の能力があるわけで、当然この中心を《任意のあるもの》に自由に設定できます。というとあたりまえの話ですが、ブログというものをこのように読み替えたところからアプローチした、この項は、僕の現在のブログの氾濫に対するパロディ、ないしカリカチャアだ、とまずはいってみます。文章自体も、ブログそのままというわけにはいきませんが、ブログの文章を読んでみて、そこからのフィードバックを試みている部分もあります。

 形式はさておき(というか、あるいはブログにとって特筆すべき点はつまるところ形式なのかもしれませんが)あくまで文章として捉えるとすれば、通常のブログが家庭料理の文章なら、これは、いってみれば、シェフのつくったお番菜、みたいなものといってもいいでしょうか。もちろんお番菜はやっぱりお袋の味がいちばんだ、という意見もあろうとは思いますが…。

 トラックバックもコメントもないけれど、従来の文章の観点からいえば、それはソフト的に外面からサポートされるべき部分ではなく内的に、個人の《腕》、独力で、本来獲得すべき広がりです。

 また、携帯ページのつくり方の説明を読むと必ず、1ページのデータを5キロ程度にしろ、と書いてあります。5キロというのを原稿用紙に読み替えてみれば、ほぼ3枚程度、ということにもなります。3枚というと、ふつう物書きにとってはいちばん親しみもあり、面白くもあるサイズ、ということになります。

 と、このように、状況をいろいろに読み替えてみたのがこの項です。これが現在のネット・携帯カルチャーに対する僕なりの有効なコミットの仕方、かどうかはともかくも、とりあえず楽しみながらの試行錯誤のひとつとして、こういうものを携帯サイトiHIRANAKAでやってみた、というわけです。さてさて、具体的にはどういうものか。じっくりお楽しみ下さい。
 では、また《あとがき》でお会いしましょう!(笑)


1.

 バルセローナでいとこ夫婦と一緒にプルコギを食べにいった。どうしてカタルーニャまで行って韓国料理なんだ、という話もあるが、泊めてもらったお礼に僕がいちどご馳走を、というと、ではせっかくだから和食が食べたい、と彼らがいった。けれどクリスマス時でおいしい和食屋が閉まっていたため、和食に近いもの、ということになり、韓国料理、となったわけだ。地勢図的には確かにそうでも、やや??という感じもしたのだが、しかし彼らの感覚ではそれでいいらしい。
 さて、店に行ってみると、日本にある日本化された焼肉中心の店とはメニューが違い、純韓国料理風(?)だった。しかし飲みものはというと、肉だから赤ワインでしょう、みたいな話になる。いやそれはおかしいだろう、やはりここは朝鮮人のココロで(笑)焼酎だろう、と僕は主張してみた。どうぞどうぞご自由に、と令夫人はブテイユで赤ワインをとった。では僕が付き合おう、といとこがいって、でもやっぱりほんとは日本人なんだし(笑)ソーダでわりたい、ということになった。ところが、お店のマダムがそんなことはできない、というらしい。え、それは一体どういうことだ、と思った僕は、でもスペイン語はさっぱりなので、もう当然「チョギ、ムスンマルスミセヨ?」みたいなことで、いきなり韓国語、である。
 店のマダム、アニ、アジュモニによれば、ソーダというもの自体置いていない、ということだったのだが、韓国語を喋る日本人がはるばるバルセローナまできた、というのでとても喜んでくれた。飾ってある人形や装飾をさして、ほら、あれもあれも日本のよ、と歓迎してくれた。韓国料理屋に日本人形?という気もするが、植民地時代の影響か、店内に日本風のものを飾っておくのは韓国の料理屋としてはやや改まった、丁寧なおもてなし、というニュアンスがあるのかもしれない。
 韓国語を勉強したが、日本にいる韓国人は大抵日本語がうまいので、僕も韓国語で話しかけたりしない。よくアメリカ人を見かけると急にペラペラ英語で話しかける人がいる、特に女のコに多いように思うが(笑)僕はどうもああいうのが生理的に苦手である。見知らぬ日本人にはああして話しかけないのだから、どうしても違和感がある。もちろん僕だってアメリカに行けば抵抗感なく、自然に英語で話せる。ところが韓国には行ったこともなくいく予定もないので、実際に僕が韓国語を喋ったといえば、基本的にはヨーロッパで、ということになる。


表紙画像ミラノの犬、バルセローナの猫
le chien à milan, le chat à barcelone

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2.

 僕の韓国語が通じること(当たり前だが!)を非常に面白がったいとこが――いやしかし、この、ことばが通じること自体が驚きだ、という素朴な実感こそが語学をやる基本でもあるのだが――じゃあこれはなんていうんだ、なんていうんだと訊くので、端から韓国語に訳すと、それをそのまま口真似して、アジュモニと話しだした。口真似が通じることがまた面白いわけだ。こういうとなんだかただのおっちょこちょいみたいだが、この“おっちょこちょい”という性格こそが、語学(この“学”という字はややじゃまっけだな…)好きの基本でもあって、僕だってアメリカやフランスに旅行に行き、新しい表現を小耳に挟むと驚いて、もうそれが面白くって、なんとか自分でもその表現を使えないか、手ぐすね引いて待ち構えているようなところがある。“おっちょこちょい”というなら、これは外国語を、新しいことばを憶える際の、たいへん大きな資質でもあるに違いない…。
 いとこは外大で英文科を出たのだが、奥さんのほうも大阪の外大の英文科出身ということで、彼女のほうはスペイン語だけでなく、さらにカタロン語もマスターしている。つまり、この場には、僕も含めて3人の“ことば好き”がいたわけだ。
 ところが、どうやって韓国語を憶えたのか、と訊かれたので、サテライトの韓国語放送をずーっと見て、あとはまぁ文法をひと通りラジオ講座で、と僕がいうと、えーっ、ラジオ講座と、あきれたというように、令夫人は首を横に振った。よくやるよ、信じられない、あんなうざったいもの!というジェスチュアである。確かに同じ語学好きとはいえ、そういう人もいるかもしれない。でも僕は、ラジオ講座がわりに好きだ。
 僕のベッドサイドのチューナーアンプは基本的にラジオ第2にセットしてあって、じつはこれが目ざまし代わりでもあるので、真面目に勉強しようというのでなくても、いろいろな語学講座をちらちら聴いたりしている。(それというのも、僕の起きる時間がまったくの不定だからであるのだが、いずれこれは明らかにされよう)ちらちら聴いて、あ、この講座は、この先生は面白いな、と思うと、書店にテキストを見に行ったりもする。真面目に勉強する場合も、たとえばTVの会話番組とであれば、ラジオのほうがよほど気が散らなくて(というのもナンだが)いいと思う。TVの会話番組は、確か98年度からだったか、総放送時間が削られた上にTV的な面白さが非常に中途半端に盛り込まれるようになり、その分内容が薄い、というか、おそらく一生懸命1年真面目に見ても、言語のスキルとしては殆んど片言の域を出ないだろう。効率や時間対効果で考えると、ラジオの完全な圧勝だろう。語学学校と比べても、ラジオは自分のペースで気楽に取り組めるところがいい。教材や通信教育よりいい点は、毎日インストールというか、ちょっとずつ毎日放送されるからで、1回さぼるとあとが大変、という適度な脅迫感もあり、僕にはかえって聴きやすい。
 そんなわけで、前回のこちらのシリーズ、《なぜフランス語か?》の流れで、ひとつフランス語を、と思い立った僕は、とりあえず先週、ラジオ・フランス語講座を聴いてみた。









3.

 フランス語講座・入門編。第1回は挨拶だった。そこで、Bonjourのあとにmadameとつけるかmademoiselleとつけるか、迷った時にどうするか?と先生がフランス人ゲスト(発音をしてみせるネイティヴ・スピーカーをゲストと呼ぶようだ)に訊くと、彼は:《Mademoiselleといっておいて、違ったら、とても若い感じだから、ということにしている》と答えた。それを聞いた先生(女性)は「はい、あまり参考になりませんでしたね。この場合、女性の心理は複雑だからなぁ、などと考える必要はありません。迷った時は、私はMadameをお薦めします」ときっぱりいった。まぁ、打ち合わせ通りだとは思うが、結構素直に笑ってしまった。
 それで続けて聴いてみると、第3回のタイトルが、テストがあります、だった。これをゲストがフランス語で読んで、その後にOh là làとつけていた。それでまた僕は笑ったのだが、そうだよなぁ、テストがあります、というのは万国共通、やれやれ、というのがいちばん正常な、人間的な反応だよなぁ、と思ったのだ。
 けれどこれが英語講座なら、「さぁ、今日はテストです。これまで学習したことがぁ、どれだけ身に付いているか(…とここは西垣知佳子(後述)先生の物まねで!)楽しみですねぇっ」という感じになるに違いない。英語というかアメリカ的な世界がいかに歪んでいるか、つまり、いかにポジティヴ・シンキングという“病”にとらわれているかということを改めて思った。
 これを韓国語会話と比較してみるともっとおかしいのだが、たとえば韓国語会話の例文には、こういうのが平気で、ある。
「恋人と別れて、生きる気がしないんだって」
「いくら熱心に単語を覚えても、すぐに忘れてしまいます」
「ご飯を食べてから一時間もたたないのに、またお腹が空いたなぁ」
「本さえ読めばいつの間にか眠くなります」
「昨夜あんなに遅くまで呑んだのに、朝からまた迎え酒だなんて…」
 …どうでしょう? 僕はもうなんの違和感も抵抗感も感じないが、どれもほんとにあった例文、韓国語のテキストでは、わりとふつうの例文、といえる。英語では、まず絶対にありえない例文ではないだろうか。
 この例文を見て、あ、なんだか韓国語って英語より性に合いそうだな、と思った人は、たぶんほんとにそうだと思う。例文は先生が、自分が面白い、興味を感じる、と思うところでつくっているはずだから、あなたの感性は、多分、韓国人の先生方に近いに違いないく、つまりあなたの感性は、アメリカ人より韓国人に近いのに間違いない。


cover プチット・リュミエール
森本英夫・三野博司/著

¥1.470 駿河台出版社 ; ISBN: 4411004925
気楽に気分よく使える、フランス語・文法 "パンフレット”。


コメント 論理的である分かえって憶えるべき規則が多いようにも感じられるフランス語。この本のいいところは、その基本的な規則がこの小ささ、この薄さに収まっている、ということ。イメージ的に「なーんだ、たったこれだけか!」と気を楽にする(?)心理的効果がすばらしい(笑)。本文もすっきりとした1色刷で目にも心地いい。この手の参考書はがちゃがちゃと汚い印刷が多いけど、見た目に美しくないとページを開く気も起きませんよね。だいたい2色刷りとかいって、自分にとって重要な、たとえばいつもうっかり忘れるところだけがきちんとハイライトされている印刷なんて見たことない。結局あまり効果もなく、かえって見た目が汚い、ということになる。この本は、きれいです。
 日常的に使わない外国語は、いちど理解したようでも「あれ、どうだったかな?」とふと確認したくなることがあれこれでてくるもの。特にいちいち理論的な説明が可能なはずのフランス語では気になります。そんな時、ぱっと掴んで気楽にめくれる小さなパンフレットのようなものでありながら、基本は概ね、しかも極めてクリアに押さえられているという、日々のリファランスにぴったりの1冊としてお薦めします。

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  • 4.

     ただの語学のテキストでも、なんだかその国の国民性みたいなものが多少なりとも反映されているようで、こうみていくと面白い。
     フランス語講座だと、以前ゲストのフランス人(男性)に《毎回私に会いに来るとき、彼はばらの花束を持って来た》みたいな例文を読ませて「あ、いいですねぇ、もう一回いって下さい(うっとり)」という感じの先生(女性)がいて、これも結構笑った。
     ところで、今年のフランス語講座に戻ると、このいかにも面白げな男性フランス人ゲストはミカエル君といって、昔TVのフランス語会話をわりと僕が真面目に見た年にもゲストだった。いや、思わず君付けしてしまったが、当時から、折あらば面白いことをいってやろうという“ちょか”なキャラクターだった。その当時というのは、地震の翌年、僕の猫が病気になって、それからずっと、僕は主に猫の看病をしていたわけだが、それというのも、最初獣医さんに「もって3カ月でしょう」といわれたため、3カ月だったらできるだけのことをしてやろう、と思ったところ、それが本人(猫)のがんばりで、3年後にまで(嬉しいことに)伸びてしまった。だから僕は、3年かけて、僕の猫にさよならをいったのだが、毎晩薬を飲ませたり、しまいには注射を打ったりで、いまの僕の殆んど外に出かけない、というこのライフスタイルは、この時に確立されてしまったといっていい。出て行くことも、また出て行く気にもならなかったわけだが、あまりに気が滅入るので、何か家でできる気晴らしを(病気になってからは楽器を弾いたりすると猫が恐がったので)ということで、もともと好きな語学をいろいろやったみた。そういう年だった。
     ところがこのムッスィュ・ミカエル、じつはソルボンヌでPhdまでとった中央大学のお高い教授様(韓国語直訳風表現)であった。TVでおなじみの怪人パトリスまでいくと、僕はやや逃げ腰になってしまうのだが(笑)ミカエルは、僕はけっこう“いける口”である。彼はまた、僕が『アイム・イン・ブルー』を書いていた当時の幻冬舎の若手・○畑君に見た目そっくりだということもあって、一方的な親しみもある。ついでに○畑君とフランス、といえば、彼は学校の卒業旅行に当時の彼女と行ったコースをもう1度独りで回り直す、というプランを持っていて、これを題して《パリ・地獄めぐり》と呼んでいた。まぁ、気持ちは判るような気もしますね…。
     この今回のラジオ講座で一緒に先生をしている杉山利恵子さんという人も、なかなか喋り口の可愛らしいひとである。いや、というか、もう少し率直にいうと、めちゃくちゃ可愛い。僕が聴いたことのある限り、語学講座の先生のなかでは、声も口調も、いちばん可愛い。飛びぬけて、他の追随を許さないくらい、可愛い。よくロマンティックコメディー・レヴューのページに書いているように、僕はかなり発音フェチというか、声と発音の可愛いひとには、それだけで、正直相当反応してしまうところがある…。なんだか以前もラジオ講座を担当していたようなので、前回は一体どんなのだったのだろう、と気になりだした。


    cover ただし、定評あるフランス語入門書「新・リュミエールフランス文法参考書」から練習問題や索引などを省略してこの薄さ、このコンパクトさを実現したプティット・リュミエール。リファランスにぱっと使うには、練習問題部分は邪魔なのでこれがありがたいわけです。けれど索引がないので、自分の知りたい事項がどの項目に入っているか、目次を見て見当がつかないと、馴れるまでは使いずらいかもしれません。リファランスとして使う人、つまり既にフランス語をいちど齧ったことのある人なら問題ないと思いますが、今年大学でフラ語をはじめた!というような初学者は、練習問題もほしいかもしれないし、あまり小さな本ではなく印刷も2色刷りになりますが、基本通りまずは「新・リュミエール」を買ったほうがいいかもしれません。
     また、練習問題はいらないけど、索引がないのは絶対困る、という人は「ケータイ〈万能〉フランス語文法」がやはりいいでしょう:「見た目が…」とか「薄さが…」とかいうスタイルではなく実質でいくと、コンパクトで十分な、クリアで判り易いフランス語入門書として、おそらくいまいちばんお薦めできる学習書です(学習書は実用書だから“心理的効果”より実質で選ぶのがほんとは本筋でしょうしね!(笑))


    次頁へ続く)

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